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夜行亜譚 「対岸」

 仕事のない休日は車を走らせて、あちこちのキャンプ場へ行くのが私の数少ない趣味だ。

 故郷は遠く、独身で、人付き合いをさほど好まない性格なのでもっぱら一人でキャンプをしているのだが、これがなかなかに面白い。日常を離れて、山や海で非日常を充分に楽しむ。誰に遠慮することなく、好きな時間に酒を飲み、食事をし、眠りにつく。こんな贅沢が他にあるだろうか。

 友人も知人も家族でさえ、私が一人でキャンプをしているなんてことは知らない。職場でもプライベートの話はしないようにしているし、一人思い立ってどこにでも出向ける身軽さも含めて楽しんでいるのだ。

 冬場はいい。閑散期のキャンプ場には本当にキャンプ好きしかやってこない。けれど、夏は呆れるほどの人間でどこのキャンプ場もごった返す。騒がしく、やかましい連中で溢れ返るのだ。

 私はそれが堪らなく嫌でしょうがない。

 結果、キャンプ場ではない、しかし寝泊まりできそうな場所を自分の足で探し出すことにした。県の北から南まで、地図で目星をつけた場所へ足を伸ばす。可能な限り人里から離れていて、できれば川の近くが理想的だった。

 生憎、ほとんどの場所は私の理想とは程遠く、どこに行っても人がいる。これほど人間は多いのかと辟易するほどだ。静かな場所で一人で過ごしたいだけなのに、どうして、そんな小さな願いさえ叶わないのか。

 人を避けて、川の上流、山の奥へと遡上していく。車で通れそうな道を地図で探し出し、とにかく試す。失敗すれば、また新しい場所を探すだけだ。

 そんなことを繰り返していく内に、ようやくその渓流に行き着いた。

「やったぞ。見つけた」

 そこは山間のダムの傍にある小さな渓流で、川の水量も水質も申し分ない。川幅はほんの十メートル程で、いかにも子供たちが川遊びをするにはもってこいの場所だ。しかし、細い道を幾つも分岐して来なければならないせいか、地元の子供さえ見つからなかった。

 苦労した甲斐があった。まさに穴場だ。

 車を停めておく為のスペースもあり、携帯電話の電波も届く。

 今夜の野営地はここに決めた。

 渓流の外、一段高い場所にテントをしっかりと張って、椅子を広げ、腰を下ろす。

 額から滴り落ちる汗をタオルで拭いながら、ハードクーラーから冷えたビールを取り出した。プルタップを外し、口をつけて一気に喉へ流し込む。

「ああ、美味いなあ」

 それ以外の言葉が浮かばない。木陰にテントを張ったのが良かった。タープがなくても、充分日除けになる。おまけに風が渓流の冷えた空気を循環させるせいか、夏とは思えないほど涼しかった。あちこちで蛙が心地良さそうに鳴いている。

「こんな場所、きっと他の誰も知らないぞ」

 家族連れでこんな山奥までやってくる者はまずいないだろう。地図でも確認したが、近所には集落もない。ダムができる前には小さな村があったようだが、とっくに水の底に沈んでしまっている。

 川の対岸は、県でも有名な連峰の一つに繋がっているが、登山道とも離れているので遭難して迷い出てこない限りは誰かに会うこともないだろう。

 大きく欠伸をしてから、テントの中に入って横になる。マットレスの柔らかな感触に、急に眠気が首をもたげた。日頃の疲れが出たのか、うつらうつらと微睡んでいる内に、いつの間にか眠りについてしまった。


 目が覚めると、テントの外は既に茜色に染まっていた。対岸の林の奥から、ひぐらしの鳴く声が聞こえてくる。

 涎を拭いながら外へ這い出てみると、山の稜線に太陽がもう沈もうとしていた。山間の日没は早い。

 急いで荷台から薪を下ろすと、手斧でそのうちの二本を細かく砕いて手早く火を付ける。焚き火台に組んだ薪に火種を移し、火吹き棒でそっと息を吹き込んで炎へと育てていく。燃え上がる炎が薄暗くなり始めた周囲を照らし上げると、ようやく落ち着くことが出来た。テントの中のランタンにも火を灯し、椅子に腰を下ろす頃には、すっかり辺りが暗くなってしまった。

 考えてみれば、これほど人気のない場所で、独りになったことはない。

 言いようのない不安を僅かに感じながらも、努めてそれを考えないようにした。

 簡単に夕飯を済ませた後は、グラスに注いだブランデーを舐めるように飲みながら、携帯電話から流れてくるジャズに耳を傾ける。焚き火の中では、パチパチと小さな火花が一つずつ弾けるように消えてゆき、その姿をぼんやりと眺め続けるだけの緩やかな時間が流れていく。時折、渓流のせせらぎが焚き火の向こうの闇から聞こえてくるのが、ほんの少しだけ恐ろしく感じた。

「ははっ。馬鹿馬鹿しい」

 私は幽霊だのといったオカルトの類を信じていない。故に神も仏もいない。初詣にも何年も行っていないし、神社に最後に行ったのはいつか思い出すこともできなかった。

 だからこそ、まっすぐに焚き火の向こうに広がる闇へ目を凝らすことができるのだ。

 この歳にもなって、暗い場所が怖いなんてことがあるものか。

 立ち上がり、グラスを手に焚き火の向こう側へと回る。光源を背にしてみれば、なるほど闇に少しずつ目が慣れていくのを感じた。夜空を映した黒い水面が、火の粉と月の光を弾いて静かに揺れている。

 対岸には手入れのされていない木々が鬱蒼と生い茂っており、もちろん、そこには何もいない。

「鹿や猪は出るかも知れないから、念のため焚き火をなるべく残しておくか」

 椅子に戻り、生ハムを齧る。豚肉の脂の甘味と塩気が、ブランデーと共に舌の上を心地よく流れていった。

 こんな素晴らしい場所を見つけ出すことの出来た自分は、本当にツイている。そう思うと、自然と笑みが溢れた。次に来る時には渓流釣りをしてみようか。水量もあるようだし、深さも十分だ。川魚くらい棲んでいるだろう。燻製にしてみるのもいいかもしれない。

 ブランデーが進む。こんなに楽しいのは久しぶりだ。浮世の憂さを晴らす、とはよく言ったものだ。

 薪を放り入れながら、炎のゆらめきを眺める。目を閉じて耳を澄ませば、あちこちで虫たちが鳴いている。この場所にある、何もかもが自分だけのものなのだ。

 ――パキッ、と枝を踏み砕く音が闇の中に響いた。

 思わず立ち上がり、音のした対岸へと目を向ける。暗い木立の奥に何かがいるような気がしたからだ。

「誰だ!」

 闇の中には誰もいない。しかし、先程微かに感じた言いようのない不安が胸の奥に滲むようにして広がっていくのを感じた。手足に鳥肌が立っていくのが分かる。

 さっきまでの高揚感が、潮が引いていくように消えてしまった。

 焚き火台に大きめの薪を放り入れて、ブランデーの残りを一気に飲み干す。それから逃げるようにテントの中へ入り、なるべく川の方を見ないように入口のファスナーを閉める。寝袋に入りながら、護身用のナタを胸に抱いて目を閉じた。

 恐ろしい。そう、心の底から思った。


 奇妙な音で目を覚ました。

 はっ、となって辺りを見渡すが、室内は何ともない。どうやらテントに何かが当たったようだった。

 慌てて寝袋から出てナタの鞘を払う。野生動物かも知れない。見れば、焚き火の炎が消えてしまっているようだ。朝まで熾火が残る程度にはなっていた筈だ。時刻を見れば、深夜の二時を回った頃。まだ多少の火は残っていておかしくない。

 その時、ぼすっ、と先程と同じ音を立てて何かがテントにぶつかった。ひっ、思わず悲鳴が漏れる。それは、ちょうど入り口のすぐ近くに落ちたようだった。

 何かが飛んできた。いや、投げつけられたのだと分かって胸の動悸が激しくなる。その行為に込められた悪意に思わず背筋が震える。

 どうすべきか少し考えて、とにかく様子を見ることに決めた。そうする他に、手段がないように思えたからだ。

 鉈を手に、入り口のファスナーをゆっくりと、なるべく音を立てないように上げていく。ほんの少しだけ開いた隙間から足元を窺い見ると、そこには一匹の川魚が落ちていた。

 食い千切られたように頭を無くし、身体だけが砂利の上でビチビチと痙攣し続けている川魚。

 呆然とそれを眺めながら、全身に鳥肌が走るのを感じた。誰もいない筈の場所で、何者かが、食い荒らした獲物を私のテントへと投げつけた。その事実がただ恐ろしかった。

 気がつけば、周囲から音が消えている。葉擦れも、虫の音色も、川のせせらぎさえ聞こえない。

 いや、聞こえる。耳を澄ますと、ほんの少しだけ、何かが聞こえてくる。

 あれは、吐息だ。不快な風が僅かな隙間から漏れ出ているような、息を吐く音がする。何かが荒い呼吸を繰り返していた。

 それは川の向こうから聞こえてくるようだった。これだけの距離があって、呼吸音などが届く筈がないのに。

 びたん、とまた魚が投げつけられた。魚の血が粘りつくように、テントの生地に縦の線を描く。

 あっあっあっあっ、と掠れたような声がする。笑い声だと気がついた時には、思わず涙が出た。親指の根元を強く噛んで、悲鳴が溢れてしまわないよう堪える。

 頭がおかしくなりそうだった。

 朝までこんなことが続くのか。そう思うと、叫び出したくなる恐怖と共に怒りにも似た疑問が湧き上がってきた。不気味に笑う、あれは一体誰なのか。

 音を立てないようにゆっくりと身体をおとし、震える身体を抑えるように浅く息を吐き続ける。床に這いつくばる体勢になると、僅かに開いたファスナーの隙間から対岸を覗き見る。そうして、月明かりに青く照らし上げられた、その姿をはっきりとこの目で見たのだ。

 人の形をした、一糸纏わぬ青白い肌をした何か。木陰からこちらへ向けるその瞼は、固く縫い付けられていた。

 あれは一体、何なのか。

 全身にぬらりとした光沢があり、妙に手が長く、指先が地面にまで届いている。頭髪はなく、引き攣った笑みの隙間から漏れたよだれ混じりの赤い血が、顎をつたい糸を引きながら垂れ落ちている。

 小さな川を隔てた場所に、恐ろしい何かが立っているという事実に絶叫しそうだった。

 其れは手に持っていた魚の頭をがぶりと齧ると、ぐちゃぐちゃと音を立てて噛み砕き、残念そうに口元を歪めた。本来の獲物は魚ではないとでも言うように、真っ直ぐにこちらを見つめた姿勢で。

 化け物が魚をこちらに放り投げる。

 しかし、それがぶつかる音を聞くことはなかった。

 それよりも早く、電源を落とすように目の前が真っ暗に塗り潰されていくのを感じた。


        ○

 翌朝、眩しさに耐えられずに目を覚ますと、既に時計の針が昼を刺そうかとしていた。

 呆然としたまま外へ出ると、眩い光と暑さに全身を焼かれる。

 何事もなく渓流は美しく、鳥たちの囀りが柔らかく響いていた。

 昨夜とはまるで別世界のような光景に思わず笑いが込み上げてくる。

 嫌な夢をみた。まさしく悪夢だ。

 ブランデーの飲み過ぎ。ストレスの抱え過ぎなのだ。

 じっとりと汗の滲んだシャツを脱ぎ捨てながら、不意にテントの脇に転がる魚の死骸を見つけて息を呑む。頭のない魚が数匹、テントに染みをつけて転がっていた。

 どっ、と言いようのない汗が全身から噴き出るのを感じた。反射的に対岸の木立へと視線を投げるが、日差しに照らされたそこには、もう何もいない。

 そのあとは死に物狂いで全ての道具を車の荷台へと乱雑に積み込み、すぐに車のアクセルを踏みこむ。

 山道を飛ぶように駆け抜けながら、一度もバックミラーを見ないように努めた。

 途中、山道の傍に朽ち果てた行李のようなものが転がっているのを見かけたが、赤く斑模様に染まったそれは酷く不吉に思えて顔を背けた。


 以来、私はあの場所に近づいていない。

 今でも、あの魚の臓物の匂いが、鼻の奥に残っている。



 

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