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古今朝餉

 朝、日の出と共に目を覚ますのは生前からの癖であり、年寄りの朝は早いというだけで特に理由はない。しかして別に朝から散歩に出かけるでもなく、コタツのスイッチを入れて温まるまで布団の中の湯たんぽを抱きしめる。ほどよく温くなっているので都合がいい。

 仮にも神が寝食をしている住まいとは思えぬ四畳半のボロアパートだが、住めば都というもので、長年暮らしていると不思議と愛着が湧く。生前は平安貴族だったので、こういう狭い家には不慣れな筈が、勉学の神として祀られて千年と少し。よくもあんな豪邸で寝起きしていたなと懐かしくて笑える。

 コタツが温まった頃を見計らって、湯たんぽを抱いて洗面所という名の流台へ。桶に湯たんぽのお湯を溜めて顔を洗い、ついでに歯を磨く。ゴシゴシと丹念に磨きながら、テレビの電源を入れる。この時間はNHKの「おはよう日本」を見るのが日課になっているからだ。あの番組は日本各地を生中継で繋いでいるのだが、現地の農家でアルバイトをしている神が妙に上ずった顔で映り込んでいたりするので面白い。

 身支度をしながら、タイマーをかけておいた炊飯器からご飯をよそい、冷蔵庫から卵を取り出して小鉢に入れてちゃぶ台へ。お徳用の味のりの蓋を開けて、朝餉の用意は完了した。あ、箸がない。

 実は、ここ100年くらい毎朝、卵かけご飯を食べるのが日課だ。昔は卵は貴重で高かったし、生のまま食べるという概念がなかった。しかし、この国の発展と共に卵は安価になり、卵かけご飯は浸透していった。100年以上、他の神たちに卵かけご飯の素晴らしさを説いていた身からすれば、昨今の卵かけご飯ブームは感慨深いものがある。私が布教を始めたばかりの頃は、どの神々も人のことを「勉強のしすぎでおかしくなった」「生卵が食えるか。梅ヶ枝餅食ってろ」「焼いて食え。焼いて」と辛辣で、誰も相手にはしてくれなかったものだ。

 卵かげご飯の流儀として、まず卵は別の碗で荒くかき混ぜる。決して混ぜすぎてはいけない。黄身と白身が程よく残っていないと食感の不均一さができないからだ。そして、炊き立てご飯へ醤油を点々と溢すように落とす。決して回しかけてはいけない。濃い部分と、薄い部分を作らないと。そして卵を流し入れて、完成だ。

「ああ、今日も旨そうだ。いただきます」

 卵かけご飯は飲み物だ。かっ込むようにして食べるのが良い。濃い卵の風味と、醤油の香りがたまらない。半分以上食べたら、味のりを手に取り、荒く千切って、残った卵かけご飯へ振り掛ける。味の変化は楽しめて、二度美味しい。

「ああ、あっという間に食べてしまった」

 以前、この食べ方を友人の神に熱弁した所、『俺は卵白を泡だてて食うのが好きなんだよ。口出しするなや』と割と本気で怒らせてしまった。

 卵かげご飯は奥深い食べ物だ。まだ出逢ったことはないが、卵かけご飯の神様もいらっしゃるのかもしれない。

 タクアンを齧りながら、新米キャスターのあたふたしている様子を眺めて笑う。彼は数年前、うちの社へ合格祈願に来た。随分と大きくなったものだ。こうして自分の夢を叶えた子を見ていると、なんとも嬉しい気持ちになる。

 窓を開けると、朝の冷気が肌を刺す。

 遠く、宝満山の頂きには雪が積もり、朝日を浴びて輝いている。

 たまには宝満山の麓の竈門神社へ出かけてみようか。運が良ければ、御祭神の玉依姫命様が麓の蕎麦屋でバイトしている所に出くわせるかもしれない。

「よし。昼は蕎麦にしよう」

 太宰府は今日も平和だ。

 

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