朗禍希読
夕刻。今日も1日の仕事を終えて、それなりに人の多い電車に揺られ、最寄り駅から家路につく。
イヤホンからは好きなアーティストが、日常や社会へのやるせなさを歌詞に込めて歌っている。ぼんやりと空を見上げると、乱立する雑居ビルの合間から覗く狭い夜空が群青に染まっていた。雑踏を歩く人々に混じって、こうして歩いている自分がなんだか羊の群れの一匹になったような気になる。
「ただいま」
一人暮らしなので返事なんてある筈がないのに、たまにこうして口にしてしまう。
荷物を下ろして、手を洗って、うがいをして。上着を脱いでハンガーへかけ、愛用しているソファへ腰をおろすと思わずため息がこぼれた。このまま何もしたくないけれど、どんなに疲れていても腹は減る。
途中、コンビニで買ってきた新作のアイスを冷凍庫へ。弁当はレンジで温めてから、録画したドラマを見ながらすぐに食べ終えてしまう。正直、弁当一つでは物足りないが、食べすぎには気をつけないとならない。
「ご馳走様でした」
空箱をゴミ箱に押し込んでから、パソコンデスクへ。家の中で間違いなく一番お金をかけているパソコン周り。ヘッドホンをつけて、起動する。
今日も今日とて、朗読を録音するためだ。
これだと思う怪異譚をネット上で見つけては、朗読してネット上で公開する。怪談朗読だなんて言葉をほとんど聞かないような昔から、もう10年以上も日課のように続けている。おかげさまで、立派な趣味となった。私自身は怪異なんてものは信じてはいないが、エンターテイメントとしては面白いし、なにより飽きない。
人間というのは、恐ろしい話が好きだ。それが日常のすぐ隣、それこそ吐息を感じられるほど近くであればあるほど魅力を感じるものらしい。
「さて、今日は何を読もうかな」
マウスを使って画面をスクロールしようとして、右手に違和感を覚えた。見ると、掌を横切るように、熱さを伴った痛みが走る。
「どこでこんな傷、」
にわかに傷口が広がり、その中に人間の歯と舌らしきものが見えた。奥には喉があり、さらに奥へと続いていく。
『その口は、まるで私のそれそのものだった』
それの発した声は、紛れもなく私のものだった。
「うわァ!」
たまらず椅子を蹴って立ち上がり、ヘッドホンのケーブルが椅子に引っかかって、つまずいて転んだ。右腕を自分から出来るだけ遠くへ伸ばしながら、悲鳴を必死に押し殺す。左手を咥え、噛み締めながら冷静になるよう努めた。
『ビルを見下ろす女と目が合った。これだけ大勢の野次馬がいるなかで、どうして自分と目が合うのかと背筋が震えた。女は恐怖に震えるでも、悲嘆に暮れているのでもない。むしろ悠然とした表情が浮かんでいて、ぞっとするほど美しかった』
右手が淡々と話す。普段、朗読で心掛けているような呟きが、部屋に響いて染み渡っていくようだった。
『女が目を閉じる。それは、まるで眠りにつく前のように落ち着いていた』
おぞましさに目眩がした。こんなものが自分の右手にあるという現実が、到底受け入れられない。何かの間違いだと何度も目を閉じたが、掌のそれは舌を出して薄く笑んでいるようにさえ見えた。
「嘘だ。こんなのは、幻覚だ。疲れすぎているんだ」
掌を握りしめると、モゴモゴと何かを話そうと蠢いている。こんなことは断じて認めない。テーブルのそばにあったタオルを手に取り、右手で強く握りしめ、上からぐるぐる巻きにして、胸に抱くようにして押しつけた。
ベッドの中に入り、毛布を頭からかぶる。掌が吐き出そうとする言葉を必死に握りしめる。
暫くして、右手の痛みが溶けるようにして消えた。言葉も聞こえてこない。
それから覚悟を決めるのに、さらに一時間ほどを要した。震える手でタオルを解き、真っ白になるほど固く握り締めた拳をゆっくりと開く。そこには、口どころか、傷ひとつ見当たらなかった。
安堵のあまり、息を吐く胸が震えた。
良かった。やはり幻だったのだ。先週、残業続きで疲れていたから、その弊害だろう。
掌をじっ、と見つめる。
がぱり、と口が開いた。
『水の詰まった大きな皮袋が、高所から思い切り叩きつけられるような音だった。中に詰まっていたものがばら撒かれ、周囲を激しく打ちつける』
その生々しい物音が耳の奥で響いたような気がして、背筋が粟立つ。
意識が遠退く中、右手の口はゲラゲラと狂ったように笑い続けていた。
●
気がつくと、いつの間にか朝になっていた。携帯電話のアラーム音が起床時間を告げている。
判然としない頭のまま、指先で携帯を探り当てると、耳障りな音を止める。それから皺だらけのシャツのまま昨日は寝てしまったのだと思い出し、次いで右手のことに考えが至った。
「ひっ」
しかし、掌には、そんな口など何処にも見当たらなかった。いつもと何も変わらない、ゴツゴツとした男の掌だ。手相なんて気にしたこともなかったが、シワの一つ一つをつぶさに調べた。異常は何もない。開いて、閉じて。違和感もなかった。
「はぁー」
安堵のため息が漏れた。思わず顔を覆い、昨夜の悪夢を脳裏から振り払う。
「この歳になって悪夢にうなされるなんて。疲れてるな」
頭の奥が滲むように痛む。
「……さて、仕事行くか」
悠長にはしていられないので、いつものように朝の支度をすませ、簡単に朝食を口に突っ込んでから家を後にした。朝の通勤ラッシュと満員電車は仕方ないが、それでも少しでも良い場所を取りたい。
出社して仕事をしている間、特にこれと言ったこともなかった。いつもの日常、昨日と変わらない今日が続いているだけだ。途中、何度か右手のことが気になったが、特に異常もなく、昨日の出来事はやはり悪い夢だったのだろうか。
「おーい、昼飯行こうぜ」
「うす。行きましょうか」
普段は会社から出ないのだが、今日は同僚たちと一緒に新しくできたラーメン屋に行ってみるということになっていたのを思い出す。
「もうそんな時間か」「大盛にしようか、チャーシューメンにするか。悩むなあ」「太りますよ」「つけ麺にしようかな」「地元の豚骨ラーメンが食いたい」
そんな他愛のない話をしながら、店までの道を歩いていると、不意に頭上からメガネが落ちてきて道路上で砕け散った。その有様を見て、胸の奥で鉛のように重い何かがこみ上げてくる。
「おい、あそこ! 人が立ってるぞ!」
通行人の一人が気づき、ワンブロック先を指差す。雑居ビルの屋上、柵の向こうに呆然と立ち尽くしている女が見えた。背後で女性の悲鳴が聞こえ、誰かがすぐに警察に電話をかけ始めた。騒ぎに気づいたのか、通りの車が次々に止まる。
「おいおい、嘘だろ」
「飛び降りるんじゃないのか。誰か、通報したのか」
「念のため、俺もかけます!」
同僚たちが口々に言い合う中、私だけは瞬きもせずにその様子をじっと見ていた。顔を背けようと思えば、出来たはずだ。それなのに、どういう訳か、目が離せない。
ビルを見下ろす女と目が合った。これだけ大勢の野次馬がいるなかで、どうして自分と目が合うのかと背筋が震えた。女は恐怖に震えるでも、悲嘆に暮れているのでもない。むしろ悠然とした表情が浮かんでいて、ぞっとするほど美しかった。
彼女は飛び降りる。そんな確信があった。
人間、こういう時には助けに走るのだと思っていたが、誰もその場から動こうとはしなかった。放っておけば、これから何が起こるのかなど分かりきったことなのに、ただ呆然と、いや、僅かな高揚感さえ覚えて、それを見ているのだった。携帯でその様子をカメラに抑えようとする者も少なからずいた。
遠くでパトカーのサイレンの音が近づいてくるのが聞こえる。
「おい、こういう時ってサイレン鳴らさないんじゃないのか。下手に刺激したら」
課長の声が、やけに大きく響いた。
女が一歩、前に歩みを進める。何気ない、普段通りの一歩だった。だが、その一歩はこれまで見てきたどんな一歩よりも、重い。踏み出した女の足は空を切り、身体が前のめりに転げる。
そうして、墜ちた。
きっとその場にいた誰もが、悲鳴をあげたと思う。
私も声を上げただろう。
水の詰まった大きな皮袋が、高所から思い切り叩きつけられるような音だった。中に詰まっていたものがばら撒かれ、周囲を激しく打ちつける。
アスファルトに、路上駐車していた車に、階下のカフェテラスを彩るように鮮やかな赤が差す。
悲鳴が爆発した。現実を塗り潰すように、目の前で起きた死が恐怖となって襲いかかった。
不意に、右手に激痛が走る。
ゲラゲラゲラ、と狂ったような笑い声がこだました。
咄嗟に拳を握り、胸に抱いてその場を離れた。背後で後輩が自分を呼ぶ声が聞こえたが、振り払うように路地裏に飛び込む。とにかく人気のない方へと走った。
やがて、もうそれ以上走れなくなって、寂れたコンビニの裏手で立ち止まった。ゼェゼェと喘ぐように息を吸って吐いて、感情がめちゃくちゃになっているのか、いつの間にか泣きながら走っていたらしい。
右手がモゴモゴと勝手に動いている。指先はとっくに痺れていて、もうこれ以上はどうやっても拳を握っていられなかった。それでもこの手を開けば、また恐ろしいものを聞くことになると分かっていた。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ。やめろ、やめろ、やめてくれ」
私の意思に反して、右手の拳がゆっくりと解けるように開いていく。それは牡丹が花開く様によく似ていた。花弁が開き、その中央にある口が声を上げる。
『戸を開いた瞬間、鼻を刺すような異臭と共に蠅の大群が飛び出した。生き物が朽ちて腐っていく臭いに堪らず手で鼻を覆う。背中を向けてしまえばいいものを、それでも目を離さずにはいられない』
淡々と掌の口が災いを紡ぐ。誰だっただろうか。耳には瞼がない、と言ったのは。
『呆然と投げた視線の先、黒く変色した布団の上に男女の骸が転がっている。蠅の苗床と化した塊には、身体のあちこちに鋭利で深い傷があった。寝ていた所を襲われたのか。骸は布団の上から逃れることすら出来ず、並んで息絶えていた。腐敗が激しいのは、暖房がずっと回っていた為だろう。それでも尚、遺体には確かな面影が残って』
全身の血の気が引くような気がした。何かが決定的になる。そういう確信にも似た予感に膝が震えた。——その時だった。
「あの、大丈夫ですか?」
コンビニの若い女性の店員が心配そうにこちらを見ていた。
「具合が悪いようでしたら、救急車呼びましょうか?」
掌を見ると、あの口は消えていた。まるで逃げ隠れたように。
「すいません。少し目眩がしまして。大丈夫です」
「はぁ、それならいいんですけど」
命拾いしたような気がした。なんとか立ち上がり、彼女に頭を下げてコンビニを後にした。左手で携帯を取り出し、会社に電話をかける。具合が悪いので早退させて貰えるように話をつけた。幸い、明日は土曜日だ。
この掌の口は、凶事を予言するのだ。それも人の死にまつわる凶事を。
どうにかしなくては。だが、どうやって?
私はこれまで数えきれないほどの怪異譚を語ってきたが、専門家でもなんでもない。そもそも怪異なんてものを信じてさえいなかったのだ。誰だったか。『この目で見なければ信じられないだろう。だが、その目で見てしまえば、それは紛れもなく存在するのだ』と語っていたのは。その通りだ。他人に見えようが見えまいが、そんなことはどうでもいい事だった。他ならぬ私が見えてしまう事が、どうしようもなく悲劇なんだ。
焦燥感に膝を掻きむしる。とても家に帰る気にはなれなかった。
電車に乗った。特に理由はないが、どこかでじっとしている事には到底耐えられそうになかったし、この右手の口は他者がいれば現れないのではないかと思ったからだ。
取り留めのないことを考え続ける内に、いつの間にか私は眠ってしまったらしい。気がつくと、すっかり車窓の外の景色は暗くなっている。乗客もほとんどおらず、疲れたサラリーマンが数人眠りこけているだけだ。
どこまでやってきたのか。ぼんやりとそんなことを思っていると、電車が減速を始めた。
『次は屋敷町、屋敷町に停車致します』
どこかで聞き覚えがあるような駅名だった。帰るのなら、ここらで戻った方がいいだろう。座席を立って、ホームへ出る。閑散としていて、線路向こうのフェンスに白い紙のようなものが引っかかって風に揺れていた。
「随分と顔色が悪いようだが、大丈夫かい?」
不意に声をかけられた。振り返ると、そこには長身の美しい女性が立っていて、私の顔を心配そうに覗き込んでいる。カーディガンを羽織り、神秘的な雰囲気を纏う美女、こんな状況でなければ胸の高鳴るようなシチュエーションだが、生憎こちらはそれどころではない。
「いえ、大丈夫です」
「とてもそうは見えない。君のその右手は、本当に酷い有様だ」
思わず息を呑む。どうして、という思いが口から言葉になって出ていかない。
「——ついておいで。私の店へ案内しよう」
●
彼女は屋敷町で古い骨董店をしているという。それも曰くつきのものばかりを扱うらしい。かつて朗読した怪異譚の中に似たような話があったような気がしたが、どうしても思い出せなかった。
道すがら、私は藁にも縋る思いで彼女に心中を吐露した。
「はは、君のような例も珍しい」
彼女はどこか楽しそうでさえあったが、纏う超然とした空気は尋常ではないものがあった。
屋敷町という土地は古い武家屋敷の多い土地らしく、そうした文化財級の住居を避けるようにして店舗ができた為に、一歩裏道へ入ると、まるで迷路のような路地が続いた。
「そこいらの店に興味本位で入らないように。普段ならともかく、今夜は駄目だ」
「今夜?」
前を歩く彼女が、肩を竦める。
「今日は彼岸の入りだろう。死者の門が開く日だ」
それほど気にかけてきたことがなかったので、耳に新しい。お盆は地獄の蓋が開くとか聞いたことがある。彼岸もそういうものなのだろうか。
「年に数度、こちらとあちらの境が曖昧になる。ここは、あわいのようなものだ。君は運がいい」
「運がいい。……そうでしょうか」
こんな恐ろしい目に遭っている自分のどこが運がいいというのか。
「そうとも。怪談というものはね、本来、ある種の呪詛なんだ。聞いても呪われる。話しても呪われる。書いても呪われる。そういうものだ。勿論、全てがそうである訳ではないけれどね」
「呪われる……」
右手が疼くように痛んだ。
「これまでどれだけの怪談を読み、話してきた? 自覚はないだろうが、君は怪異の蒐集家だ。それだけの呪いを集めていれば、その右手のような形で現れることもあるだろう」
彼女は振り返らないまま、深い路地の奥へ進み続ける。
「目に見える形で現れるとは限らない。当人ですら気付かないような形で唐突に現れることもある。他人から見れば運が悪い、そういう風にしか見えないことも。だが、君のように、これ以上ないほどはっきりと輪郭を持った形で現れることもあるんだ」
「……どうしたらいいんでしょう」
「君はどうしたい?」
「人が死ぬところを、初めてこの目で見ました。人の死というものは、あんなにも恐ろしいのかと思い知った。生々しくて、痛ましくて……」
「君の右手は、凶事を告げるのだと言ったね」
「はい」
「おそらくそれは誤りだ。凶事を告げるのではなく、それが凶事を手繰り寄せるのだろう。悪夢を、現実というこちら側へ浮かび上がらせる」
「つまり、彼女が死んだのも私の右手が原因なんですか」
「自殺なのだろう? それなら要因は彼女の中だ」
「それでも、あれが手繰り寄せたものでなければ、助けられたかもしれない」
瞼にこびりついて離れない。まるで遠い舞台を眺める観客のように、誰も彼もがそこから動かぬまま、ゆっくりと死に向かって歩いていく彼女を見つめていた。止められたかもしれない、あの一歩を踏み込ませないために、何かが出来たかもしれないのに。
「ああ、成る程。面白いな、君たちはそんな風に捉えるのだったね」
どこか懐かしむような顔で、コロコロと喉を鳴らして笑う彼女に怒りがこみ上げてくる。
「面白いですか? 私が巻き込んだかもしれない人の死が」
「いや失礼、久々に聞く感情だったものでね、つい。それについて君が気に病む必要はないよ。避けられないものだった事は保証しよう。ただ、君の目の前で死ぬことはなかったかもしれないがね。言っただろう? 手繰り寄せたんだよ。其れもまた、君のしたように」
「……どういう意味ですか」
「見ず知らずの他人の凄惨な結末が、記憶の中に捻じ込まれる恐怖も、ほんの少しの選択の違いで、回避できたかもしれない悲劇も、日常の先で不意に迷い込んだ暗闇も、君が集めた物語だろう? 同じ事さ。自らが覗き込んだ其れもまた、君を見ていただけの話なんだよ」
彼女が止まる。路地裏の少し開けた空間に、一軒の店が居を構えていた。古い二階建ての木造建築で、磨りガラスの向こうにうっすらと灯りが見える。屋号なのか、ガラス戸に貼られた紙には『夜行堂』という文字が毛筆で書かれていた。
「ようこそ。私の店へ」
彼女はガラス戸を開け、店の奥へ進んでいく。私は店内に入って後ろ手で戸を閉めると、店の中を見渡した。土間の上に棚が無造作に並び、それらを天井から吊るされた裸電球が仄かに照らし上げている。棚の上、あるいは土間の上に様々な物が陳列されているが、それらには値札のようなものが見当たらない。
古く重厚な南京錠、万年筆、白磁の壺、狐をあしらった貝の象嵌、白蛇の根付、鬼の面、枯れ木のような黒い義手、万華鏡、小刀、真珠の首飾り、銀製の懐中時計。そうした統一感のない骨董品が、所狭しとある。
「気に入ったものがあれば、手にとって見たらいい」
「いえ、その、買い物に来た訳ではないので」
「金銭の心配はいらない。それに、君のものになるかどうかは、彼らが決めることだ。君が決めることじゃない」
どういう意味か、よくわからない。
不意に、背後でクスクスと潜むような笑い声がしたような気がして振り返ったが、そこには誰もいない。だが、耳を澄ますと確かにあちらこちらで、囁くような声が聞こえてくる。
「怪異を知った君を守れるものも、また怪異に他ならない」
帳台に身体を預けながら、暗がりの奥から彼女が言う。甘い香りがするのは、彼女が煙管を吸い始めたからだ。紫煙が店内に広がり、霧がかかったように煙っていく。
「曰くつき、なんですよね。妖怪みたいなものですか?」
「妖怪、精霊、魑魅魍魎、付喪神。呼び方は様々だが、本質的には意味などないよ。そういうものとして在るだけなのだから。どれも似たような側面を持っているに過ぎない」
ぞっとしない話だが、今更恐れていても仕方がない。
棚に並ぶ骨董品をひとつひとつ眺めていく。生憎、こうしたものに興味がないので、まるでピンと来るものがない。御守り代わりだと思えばいいのかも知れないが、どうにも曰く付きのものを手に取ろうとは思えなかった。
しかし、不意に視線があるものに留まり、思わず手に取る。それは白磁のように艶やかな色をした簪だった。雪の華を模した飾りがついており、細やかな細工に目が奪われる。
「ああ、巡り逢ったね」
「でも、これは女性の身につけるものですよね」
「そんなことは関係ない。彼女が選び、君が手に取った。縁が結ばれ、繋がった。性別など些細なことさ。それに、簪は古来から魔除けの道具なんだ。男女に関係なく使われていたよ」
簪なんて現物をつぶさに見た事すらないのに、なぜか不思議なほど手に馴染む。まさか髪に挿す訳にもいかないから、御守りとして持ち歩くことにしよう。
「あの、お代は幾ら程でしょうか? お支払いします」
「必要ないよ。君のような語り部は大事にしないとね」
「語り部?」
「怪異であれ、神々であれ、そうしたものたちは恐れられ、奉られないといけない。視える事よりも、知られている事の方が重要なんだ。誰も彼もが忘れてしまえば、全部滅んでしまう」
それじゃ商売にならない、と彼女は微笑う。
「ですが、呪詛を撒き散らしてるようなものではないのですか?」
先の話を聞いて、私は怪談を朗読することはやめようと考えていた。聞いても、語っても呪われるというのなら、恐ろしくてそんなことは出来ない。
「君が語るそれは残酷な結末のものばかりなのかな? 凄惨で救いようのない話ばかりを、聞く者すべてが不幸であれ、と呪いながら話している?」
「いえ、そんなことは」
「なら、いいじゃないか。心配せずとも、君にその気がないのなら呪詛を振りまくようなことにはならないよ。まぁ、原典を蒐集し、自らの言葉に翻訳する君には、これからも降り積もっていくことになるが、それは君が背負うべきものだ」
手の中の簪に視線を落とす。
「わかりました」
「うん。また来たまえ」
彼女は話は終わりだとばかりに、パタパタと手を振った。
私は胸に簪を抱いて、店を出る前に頭を下げた。
ガラス戸を開けて外に出て振り返ると、忽然と夜行堂は消え失せ、いつの間にか駅前の路地にひとりでポツンと立ち尽くしていたのだった。
右手の口がおぞましい惨劇を語ったあの場所は、きっと実家なのだという確信があった。あの言葉の端々から感じ取れる空気が、まさしく生まれ育った家のそれであった。
覚悟を決め、私は終電で実家へ向かうことにした。自宅の両親に電話をかけてしまえばいい。そう思いながらも、どうしても安易に確かめるのは憚られた。なんの準備もなく、電話をかけてしまえば、最悪の結果を確定させてしまうような気がしたからだ。
手の中の簪を、確かめるように何度も指でなぞる。どれほど恐ろしくても、簪に触れていると不思議と恐怖が和らいだ。まるで雪が溶けていくように、動悸が落ち着いていくのがわかる。
最寄駅からの道のりを歩いている内に、いつの間にか雪が散らつき始めていた。
季節は初春とはいえ、まだ夜の空気は刺すように冷たい。
家の前で、立ち止まる。心臓の音が耳元で聞こえる。
震える指で呼び鈴を押す。しかし、返事はない。ポストには数日分の郵便物が溢れ出ていた。脳裏にあの惨劇が過ぎる。
玄関の鍵を開け、廊下に上がると、しん、と静まり返っていた。
居間にも和室にも姿はない。こたつの上に乱雑に並んだ新聞と雑誌、壁にかけられた酒屋のカレンダー、花瓶に活けられた梅は枯れ果てている。
両親の寝室へ近づくにつれ、鼓動が早くなっていく。呼吸が乱れて、うまく息が吸えない。
戸に指をかけようと、手を伸ばそうとした瞬間だった。右手に激痛が走った。見ると、掌にあの簪が深く突き刺さっている。だが、何かおかしい。切っ先はほぼ根元まで突き立っているのに、貫通している筈の先端が甲から出ていなかった。
『ギイイイイィイイイアアアアアアッ』
右の掌が口を開き、他ならぬ私の声で悲鳴をあげる。簪は口のほぼ中央を貫いたまま、吸い込まれるように奥へと進んでいく。例えようのない痛みに呻きながら、堪らず膝をついた。
しかし、断末魔の悲鳴はもう聞こえない。まるで雪に音が吸われてなくなるように、右手の言葉が消え失せていくのが分かった。簪はゆっくりと回転し、痛みと共に口の中へ入っていくと、やがて見えなくなった。そうして、それを飲み込むように掌の口が閉じたのだった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
痛みが消えるまで、廊下に蹲っていた。右手の中に入っていった筈の簪は、一体どこへ行ったのか。そんなことさえどうでも良かった。
立ち上がり、深呼吸を二回。
そうして、寝室の戸を引く。
真っ暗い寝室に、両親の姿はなかった。
「はー、良かった……」
へなへな、と腰を下ろしてから、しばらく呆然としていた。
安心すると、人間は空腹を覚えるというが、ようやく腹が減ってきた。
居間に戻り、電気をつけると、こたつの上には旅行雑誌が幾つかあった。
「もしかして」
携帯電話で親とのやりとりを見返すと、もう2ヶ月以上前に『春になったら由布院へ旅行に行ってくる。温泉にも行く』という旨の内容が父親から来ていた。そういえば、そんなことを言っていたような気もしないでもない。ああ、全く拍子抜けだ。
「あはは、なんだよ」
でも、何故だろう。この簪がなかったのなら、きっとあの戸の向こうに広がっていた結末は違っていたような気がするのだ。
不意に、二の腕に違和感を覚える。
袖をめくると、そこには奇妙な痣ができていた。一つではない、幾つもの雪の結晶の形をした痣が浮かび上がっている。
窓の外に目をやると、深々と雪が降り積もっていくのが見えた。
あれから怪談を朗読する度に、体の中に雪が積もる。
雪の華は血肉に溶けて、声音に色彩を与えていく。
呪詛を、言祝ぎを、他ならぬ、この声で紡いでいく。
この世から、怪異が。神々が消えてなくなってしまわないように。
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