クラブ体験記(前編)

 「旅の恥はかき捨て」ということわざがある。旅先では知り合いもいないし長居もしないから、ついはめを外した行動をとってしまうという意味である。

 とある夜の京都に、この言葉を念仏のように唱えながら歩く男がいた。剃髪し、僧服を纏っていたならば、すれ違う人には近くの寺の坊主だと思われたことだろう。男は確固たる意思を持って、繁華街として知られる河原町を歩いていた。

 「クラブで踊りたい」
男の脳を支配していたのはその一念であった。

 男はこの後無事に(?)クラブへの侵入を果たすのだが、そこに至るまでには険しい葛藤の過程があった。早くクラブのことを読ませろという読者もいるだろうが、先にそちらを書かせていただく。

 昼間は観光客らしく清水寺や八坂神社、祇園の街並みといった観光名所を巡っていた男であったが、どこか物足りなさを感じていた。何の計画もない行き当たりばったりの旅なのだから当然といえば当然だろう。ともかく、何か非日常な体験をしたいと思った男は、「京都 夜遊び」など理性を感じられない検索ワードをGoogleの検索エンジンに投げつけた。天下のGoogle先生は呆れながらも情報を提示してくださり、男はその中でもダンスクラブに興味をひかれた。齢25にしてその3割ほどを引きこもって過ごし、クラブはおろかひとりで居酒屋にも入ったことのない男がいきなりその選択肢を選んだのは奇妙だと言わざるを得ない。音楽に合わせて体を揺らすのが好きだ、程度の理由ではまともな人間はいきなり見知らぬ地のクラブに行こうとは思わないはずなのだが。

 それはさておき、同年代が学問や労働に励んでいる間ひたすらパソコンと向き合い続けた経験を生かし、男は京都市内のクラブについて情報を集めていった。結果、京都でも有数の収容人数を誇る箱(と呼ぶらしい)がキャンペーン中で、21時の開店から1時間以内なら無料で入場できるという魅力的な情報を得た。その時点ではまだ「甘え」のあった男は、無料のうちに行ってつまらなければ終電までに帰ろうという常識的な発想に至る。 

 クラブについて十分リサーチしたつもりの男は、ドレスコードを全身UNIQLOの服装でクリアし、入店までの流れを綿密に確認すると、いよいよ河原町へ出発した。

 道中迷いながらも、予定通り21時30分頃に目当ての派手な看板をその25歳男性は発見した。しかしなにやら様子がおかしい。入店するどころか入口に近づこうともせず、離れたところからチラチラと様子をうかがっているのだ。その姿は出来損ないの探偵のようで、楽しそうな繁華街の人々の間で明らかに浮きまくっている。なぜ男は入店しなかった、いやできなかったのか?それは入口の状況が彼の想像とはかけ離れていたからだ。男のイメージでは開店と同時にパーリーピーポーが列をなしてボディチェックなどの入場手続きを受けており、その列に混じってしれっと入店しようというのが男の魂胆であった。しかし現状男が視認できるのは2人のいかついセキュリティだけで、しばらく見ていても入店する客は現れない。それもそのはず、クラブが賑わいだすのは終電のなくなる24時を過ぎてからで、開店直後は大きな箱でも人は少ないことが多い。おまけにその日は月曜日である。平日の21時台にいるのはよほどのクラブ好きくらいのものだろう。少なくとも、クラブ経験がない男が単騎で乗り込むタイミングではない。早い時間だと入場料が無料になるのはなぜなのかを考えれば想像がつきそうなものだったが、悲しいかな、男は「無料」というワードに弱すぎたので、頭を回そうともしなかったのだ。

 それはともかく、男にとってこの2人のセキュリティを突破することは例えば東京大学に合格するより難しいことだった。何度か店に近づくもののセキュリティたちの視線に躊躇して通り過ぎるという不審者ムーブを繰り返すと、「さすがに目を付けられてそうでもう無理だろ」「ここは冷静にオリ(麻雀でアガリを諦めること)た方が期待値有利」「俺は硬派だから」などと意味不明の供述を始めるようになり、気付けば時刻は22時に迫っていた。タダで入場できるのはあと数分だけ。男は最後の勇気を振り絞ろうとした……、が、駄目!「そもそもクラブとか違法だしな(違法ではない)」と捨て台詞を吐いてすごすごと京都駅前のホテルまで退散した。ここで一歩踏み出す意志力があれば25歳で大学3年生などやっていないだろうから当然の結果なのかもしれない。

 真新しいホテルのきれいな部屋でストロング缶を飲みながら、それでも男はクラブを諦めきれずにいた。クラブについて再度リサーチを行い、前述の賑わう時間帯について学びを得る。そしてピークタイムに行けばすんなり入れるのではないかと思い、アルコールの力も大いに借りつつ、改めて決意を固めることに成功した。Twitterでクラブに行く宣言をし、帰りの終電がない時間に地下鉄に飛び乗った。セルフ背水の陣によって男が「甘え」を捨てた瞬間である。数十分後、日付の変わろうとする河原町には、「旅の恥はかき捨て」をスローガンに歩く修行僧の姿があった。

 そして再び、クラブの前にたどり着く。そこには先ほどのセキュリティたちの姿はなく、かわりに客と思われる女性2人組がいた。これぞ好機とすかさず後に続く。受付の女性店員に身分証を見せると、驚くほどあっけなく入店できてしまった。その間わずか5秒。Fラン大学も形無しである。勢い付いた男は早速バーカウンターに行き、さも飲み慣れているように見知らぬドリンクを注文する。気分は完全にパリピである。

 ドリンク片手に、いよいよメインであるダンスフロアに向かう。正確な数は分からないが、すでに50人以上はそこにいただろう。客層が若めの箱だったこともあり、学生風の客が大半を占めていた。男は後ろの方に立つと、酒を飲み終わるまで周囲を観察することにした。

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