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失望から生まれた希望

最近はここでも息をしていることが多い気がしています。
こんばんは 綴音 夜月です。

今日は改めてここがある理由をお話ししたいと思います。

Twitterを始めとしてノベマ! 小説家になろう エブリスタ
綴音の感情を軸に動かしているコンテンツが多くあります。
ただnoteは圧倒的に言葉の色が違うのかなと綴音自身感じています。
というよりあえて色を分けています。

細かい感じ方は除いて、ここに並べている言葉は
見る人から見ると好ましくない内容なのかなと思います。
使っている言葉ひとつ、載せている画像ひとつそうですね。

これからこの話をしていく前にひとつ前提を話すと
『どのコンテンツにも嘘はない』
ということです。

話は戻りましてnoteは私の中の醜い部分を晒している場所です。
生きたい 死にたい 辞めたい 進みたい
言語化できないような感情をあるままに綴っているのがこの場所です。
『書き殴り』という表現の方が適切なのかなとも思います。
客観的に見たら
『醜さを晒す理由はない』
と思われてしまうのだろうなと投稿する度に思います。


『作家になりたいと思った理由』
ーー誰かの救いになれたら

きっと醜さを晒す根幹はこの理由を叶えるための不器用な手段故のものです。

以前『救う』について話をしてことがあって
それと被る部分をあると思うのですが受け取ってくれたら嬉しいです。

『救う』ことは簡単なことじゃない。
正直救えたかなんて永遠にわからないし
救われたかなんて実感しても忘れてしまうものだと思っています。
薄情なように聞こえるけれど、これはすごく自然なことで
一度救われても、底に叩きつけられた時
その感覚を思い出せる程の視野を私自身はきっと持ていないから。
冷静に『あの時』を思い返して前を向くことは
きっとすごく難しいことだと思うから。

ただ、その時の双方の感情が本当なら思い出すことは必ずできる
とも同時に思っていて信じています。
だから嘘をつきたくないんです。
綺麗なことだけが誰かを救う何かだと思っていないから。

綺麗な歌で音楽で、よくできた文章で
誰かの砦になれたら素晴らしいと何度も理想に思ったけれど
本当に頼りたいのは同じ醜さを持つ何かとの共感なのかな
って気づいたんです。
正しいか間違ってるかは正直わからないけど。

だから誰かから見た好ましくない言葉も
不適切な表現も全て晒したい。
それで誰かを救えたなら本望で、
小説は誰かを他の意味で救えたらなと思っています。
軽視しているとかではなく小説は生きる娯楽的な意味で捉えて
いただけたら嬉しいなと思っています。

ここをどう解釈されてもいいなって思います。
「同じこと思ってるな」でも
「こういうふうにはなりたくないな」でも
「自分だけじゃなかったんだ」でも
「私はこの人よりちゃんとしてるな」でも
誰がどう思っても頼りたいときにそこに在りたい。

それがここがある理由、ここに託した役割です。
いつか誰かの大丈夫になれますように

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