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記憶と電球、

 私の部屋には表紙の写真の灯が四つまとまってぶら下がってるんです。
私の家は築年数も結構ある一軒家なんですけど、よくこの重さに耐えてるなって思います。画鋲は簡単に刺さるのに、なんというか結構強いなって。

 四つの灯だと眩しすぎるのでそのうち対角線上の二つに電球を入れて部屋を照らしてもらってるんですけどその一つが切れそうなんです。
取り替えればいいじゃんって、私もそう思います。
でも今日はそんな電球についての話をさせてほしいです。

 電球ってどれくらい持つと思いますか。
調べてみたんですけど私の家で使ってる電球の寿命は三年と七ヶ月くらいでした。
この電球を取り替えてくれたの、私の祖父なんです。
四年前の春に引っ越してきた母の実家、元々は母の弟が使っていた部屋を私と母の部屋として使わせてもらうことになって。
すぐに電球が切れちゃって一緒にホームセンターに行きました。
それが確か六月くらいだった気がします。

 その一ヶ月後、七月の終わり頃祖父は私とは違う世界へいきました。
作り話みたいですよね、でも本当なんですよ。
学校が終わって家に帰ってきたら知らない車が四台、庭に停まっていて。
部屋に祖父だけがいなくて、確信を問う前に状況を察した当時のこと。
そういえば最後に言葉を交わせたの、いつだったっけって。記憶を遡ったら、最後の会話が電話越しでした。
きっと状況の理解に追いついていなかった当時四歳くらいの従兄弟が隣で泣いていたのに、わかってる私は何故か涙が出なくて。
確かに大切だったのに、状況の忙しさに悲しさが追いつかなかったこと思い出したらキリがないなって今になっても思います。

 お墓参りとか法事とか、家族として親族として参加することはあるんですけどどうしても実感がわかなくて。
私には形式的に連ねられる言葉の意味も、機械的に手を合わせる時に抱くべき感情も、器用に追いつけなくて。
喪服の代わりに制服を着た時『ちょっと待ってほしい』って当時思ってて、それは今でも変わってなくて。
 綺麗事ではなくて、本当にいなくなったことを実感していないんですよ。記憶的な意味で。事実ではわかっているし、受け入れてもいる。
十数年間離れた場所に住んでいたけれど、ちゃんと大事な想い出をくれて遊んでくれて、土地勘もなくてわからないけどドライブしたなとか、寝る前に一緒に聴いてたラジオの内容とか。
 離れていた頃に注がれたことも、全てではないけれど覚えていて。
一緒に暮らすようになってからはそれなりに不満を持てて、嫌な面も知れて、でも変わらず好きなところはあって。そんな面をみれたこと私は後悔してないですり
 祖父に対して『もっと生きている間にこうしていればよかった』なんて後悔は抱いたことがなくて、どちらかというと『お疲れ様、ありがとう』っていう理解はされないのかもしれないけどそういう感情の方が強いなって思ってます。
今も変わらず、未練はないです。
だからきっと追いつけなかったんだろうなって思います。

 祖父が電球を替えて約三年。
大切な存在のはずなのに、無意識のうちに最後に話をしたのが三年も前なんだ、って消えそうになった電球をみて気づきました。
祖父は平均寿命を越えられなかったけど、この電球には三年七ヶ月の平均寿命を越えてほしいなと勝手に重ねて思っています。

 三年のうちに何かを忘れて、気づかなくなって、変わっていって、あれだけ泣いていた『誰かがいない』非日常が日常になって。
それでも大切なことが無意識に思い出せる、そんな感性を持ち続けていたいです。
言葉を伝えることもできないし、大学進学を一つの目標、夢だと言っていた私がそれを無くして小説家になったことも知らせることはできないけれど、それでも私は当時の記憶にたまに縋りながら『がんばるね』って頑張れる人でいようと思います。

 ちょっとこれより先の話は次の日目が腫れちゃいそうなので言葉にはしないで留めておきます。
それではまた。

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