成り果て

 「さあ、続いてのお便りはこちらです」
 ワンルームの薄暗い部屋から肉声じゃない人間の音が網戸越しに流れる。
 「埼玉県にお住まいの30代男性、レモンサワーさんからです。初めましてこんばんわ。私は最近とある趣味ができました。それは、健康的な生活をすることです。具体的には朝に運動をしたり、筋トレをしたり、夜食などの食生活の乱れを無くすたりすることです。その効果が出たのか仕事の集中力があがりいい結果を残せたり、何より驚いたのはお酒を辞めることができたことです。無類のお酒好きだったのですが、これを機に禁酒を頑張ってみたいと思います。お二人の趣味は何ですか?とのお便りでした、ありがとうございます!」
 「ありがとうございます!」
 お便りを読み上げた男の声に、女の声が追随する。
 しかしながら、ベランダにいると色々な音が聞こえる。名前も分からない虫の音や近くを通る電車の騒音、どこかの誰かが飾っている風鈴の音色。夜は視覚という情報に脳のリソースをあまり消費しないからか、際立って聴覚が敏感になっているように感じる。
 「いやぁー、それにしても健康が趣味って凄いですね。僕なんか40も後半になってきてもうお腹がどんどんと出てきて怖いですよほんと。」
 「健康維持って大事ですからねー。私は最近ヨガを始めてそれにめちゃくちゃハマってますよ。」
 肉声ではないこの音は声がはきはきしていて、大きくて、希望の権化のような音色をしている。今の敏感な聴覚にはちょっとしんどい。
 「じゃあもうヨガが趣味ってことなんだね。こんな話題の中あれなんだけど、僕は最近食にハマってるよー。日帰りとかで家族と旅行に行って美味しいものを食べたりするねー。」
 「それいいですねー。でも食べすぎは注意ですよ!」
 そう考えるとラジオなどのパーソナリティは凄いなと実感する。いつも気丈に振舞い、視聴者に元気や面白さなど形のない曖昧模糊としたもの届けなければならない。少なくとも僕には無理そうだ。
 「そうだよねー、健康診断に引っかからないように気を付けるよ。先週は番組がお休みだったからお便り紹介から二週間経っちゃたけど、レモンサワーさんは健康的な趣味が続いてるかな?」
 「どんな趣味でも続けるのが大事って言いますもんねー。レモンサワーさんファイトです!」
 「それではここで一曲、東京幻想隊で色褪せる夏。」
 希望が絶望に変わるのは一瞬だけど、絶望が希望に変わるのは膨大な時間が必要なんだと僕は思う。あれだけ健康を趣味として生きても、彼女に浮気され、数少ない友人には金を貸したまま逃げられ、仕事では大きなミスをして。まるで貧乏神が取りついたかのように襲ってくる不幸は僕を身の丈にあった地位まで陥れた。どうせ健康に生きてもいつか死ぬ、貧乏神は僕にそう囁いてきたかのように僕の趣味を奪っていった。
 ラジオからは若者が一生懸命歌っている声が流れ、やはり視界は変わらなかった。僕は網戸を開け飲み切ったレモンサワーの缶を潰し、部屋に思い切り投げ入れた。


 


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