恐怖!謎の病院!

小4まで住んでたボロ家の真向かいに謎の病院があった。

「〇〇病院」という看板はあるが、伸びた木の枝や蔦が壁を覆い、門の奥が暗くて見えない。
好奇心旺盛な子ども達にもその気味の悪さは体感できたので、「あそこに謎の病院がある」という話はしなかったし、皆でその病院については「有るけど、無いこと」にしていた。

4歳だったか5歳だったか、とにかく就学前、いつも皆が集まる公園で遊んでいた。
何故か1人で遊んでいた。友達とタイミングが合わなかったのだろう。

「そんな幼い子どもが1人で外出してるなんて!ネグレクト!」と今なら怒られそうだが、70年代の日本なのでそういうことは日常の風景だった。
砂場で遊んでいた。砂で山でも作ってたのだろう。
何かの拍子に足を躓かせて、コケた。
コケることはよくある。コケたな〜と思い、側頭部を何かで打ったような気がしたので、側頭部を手のひらで触った。ヌルっとした感触があった。
手のひらを見ると真っ赤だった。
後から把握したが、砂場の縁を囲んでいるレンガの角で側頭部を切っていた。

「なんじゃこりゃあぁぁぁ!」
とは言わなかった。まだ松田優作の存在を知らない年齢だった。
「うわぁァァァ!」と叫び、泣いた。
誰もいない公園で1人で泣いてても仕方ない。
帰巣本能からか、家に帰った。

覚えてるのは、側頭部と手のひらが血まみれで5〜10分かけて歩いて帰宅する間、誰1人として俺に声をかけてくれる大人はいなかったこと。
田舎と言っても駅前の商店街である。人はたくさんいた。
血まみれの子どもが泣き叫びながら歩いていてもそれが日常。
治安が悪すぎる。
それに関してはいいや。

帰宅して泣きながら「血が…」と母に訴えると
「なんねアンタこのくらいで泣いて!そんなの、水で洗って赤チン塗ったら治る!」などと言って俺の側頭部を洗う。
そして母が「こりゃイカン!パックリ割れとる!病院行かな!」と言い始めてすぐに病院に行った。

一番近い、家の真向かいの、あの謎の病院である。
謎の病院への恐怖より痛さと血まみれショックの方が大きかったので、素直に謎の病院に行った。

謎の病院にはオッサンの医者がいた。
医者の顔は見てないと思う。
台に乗せられ、処置を受けた。

その処置が、おそろしく痛かった。
子どもの俺は泣き叫んだ。
「泣かんのよボク。もう終わるからね」とオッサン医者は言いながら処置を続けた。
地獄の時間は10分にも、1時間にも感じた。

俺の左側頭部の耳の上には今でも数cmのハゲがある。
目立つハゲではないが、その部分を触ると激痛が続いた地獄の処置の時間を思い出す。
謎の病院は「2針縫う」という処置をしたらしい。

小学生になり歯医者等、それなりに痛い処置を他の病院で受けたが、あの謎の病院での「2針縫う」を超える痛さはなかった。

中学生の頃、母に「なぜ2針縫っただけで、あんなに痛かったのか?」と聞いた。あの謎の病院は俺に何をしたのか。

母はケロっとした顔で言った。
「ああ。あの病院の先生はね、元軍医やけん、麻酔をせんのヨ」。

そういう、レアな経験をした。

なので「本来、安全な場所であるはずの病院内において、治療を受けている子どもが痛い目に遭いまくる」という内容の映画、「震える舌」を俺は未だにちゃんと見ていない。

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