沢田研二というバンド

生まれて初めて自分の意思で買ったレコードは沢田研二の「カサブランカダンディ」だった。
たしか500円だったと思う。
1979年だから9歳の時だ。

カサブランカダンディ。
今では歌詞に非常に問題のある曲とされるが、9歳の子どもにあの歌詞は特に関係がなく、
ジュリーの歌とサウンドがカッコイイと思った。

特にイントロのギターリフである。
(ン)タララ (ン)タララ
(ン)タララ〜ララ
という「休符から始まる・裏から始まる」当時TVで流れる音楽としては画期的なギターリフ。
(もちろん、9歳の子どもが「裏から始まってる!」とか分かる訳がなく、上の説明は後付けである)

沢田研二はテレビスターだったので好きな曲は多かった。
「カサブランカダンディ」の他には
「時の過ぎゆくままに」「ダーリング」「サムライ」「憎みきれないろくでなし」などが好きだった。

ヒット曲を連発して大スターだった沢田研二は1980年、それまでと明らかに違う曲を披露する。

誰?電球?
肩の上にパトカーのやつを乗せてる?

「TOKIO」という曲だった。

電球?なぜ?
パラシュート?なぜ?
空を飛ぶ?街が飛ぶ?
スーパーシティが舞い上がる?
TOKIOが空を飛ぶ?

…なぜ?

アンタは誰だ…?

これがジュリーだろ?

この電飾マンは誰?

「ジュリーはもうダメだ」
とハッキリ思った。
冬だったことは記憶にある。
調べると1980年1月発売。
小学校4年生の正月。

お年玉で「TOKIO」のレコードは買わなかった。


あの、10歳の時に感じた違和感を改めて紐解いてみる。

70年代の沢田研二を改めてウィキペディア等で調べてみると、
沢田研二というのは「歌手」ではなく、「バンド」であったことがわかる。

バンド名は
「沢田研二と井上堯之バンド」
リーダーはギターの井上堯之。
フロントマンがボーカルの沢田研二。

ただ、当時のテレビの歌番組では「沢田研二」と表記された。

しかし、「夜のヒットスタジオ」などのアーティスト側の意見を尊重する歌番組では

「井上堯之バンド」というテロップが出ていた。



1970年に「グループサウンズ」のブームが終わる。

その後、グループサウンズの中で最も人気があった2人
・タイガースのボーカル、沢田研二
・テンプターズのボーカル、萩原健一
をツインボーカルとして、
スーパー・ロックバンドを作る企画が持ち上がり、実現する。

「PYG(ピッグ)」というバンドが結成される。

左下のベース岸辺修三は後の岸部一徳

メンバーを見ると大成功する未来しか見えないが…

このPYGに特にヒット曲は無い。
いや、あったかもしれないが俺は知らない。

このバンドは自然消滅する。
萩原健一が「太陽にほえろ」などに出て、俳優として忙しすぎになったため、とウィキペディアには書いている。

ライブではオリジナル曲に加え、ディープパープル、ローリングストーンズ、フリー、ブラックサバスの曲などもやっていたようで、ライブアルバムにも収められている。


この「PYGから萩原健一が抜けた状態のバンド」が
「沢田研二と井上堯之バンド」である。

ギタリスト、井上堯之は「太陽にほえろのテーマ」が有名だが、

ギタリストとしても欠かせない人であり、
例えば、
・B'zのギターは松本孝弘
・BOOWYのギターは布袋
・ミッシェルのギターはアベフトシ
・ヒロトの横で弾くのはマーシー
と同じくらい「代わりがいない」ギタリストである。


その「沢田研二と井上堯之バンド」は1980年に解散してしまう。

理由は…

ボーカリストが電飾人間になってしまったから…

リーダーの井上堯之はこのジュリーのパフォーマンスに強烈な違和感を覚え、「井上堯之バンド」ごと解散してしまう。

その後、沢田研二はオールウェイズ、EXOTICSというバンドへと移行してゆくのだが、
一般的には「歌手・沢田研二の曲」という認識のされ方は変わらないまま、今に至る。


ただ、「TOKIO」はめっちゃ売れたんですよね。
俺が「ジュリー、何してんの…」とガッカリした曲は大ヒットした。

この、10歳で体験した「TOKIO事件」が俺の中に「日本で売れる曲はロクなものが無い」という良くない逆張り意識を芽生えさせてしまい、

思春期だった80年代は「日本の音楽、ダサイ」になり、洋楽に走り、「流行りの洋楽より60〜70年代のロックだ!流行りの曲なんてミーハーだ!」という、なんともイタイ中高生時代を過ごすことになる…


でも、ジジイ化した今は分かる。

売れたものは、多くの人が知ってるものは、イイ。

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