1979年、「推し」の源流(「松田聖子と中森明菜」書評)
脱線しないように、この本で初めて知ったことを書く。
松田聖子と中森明菜という歌手については有名人であるし俺より知ってる人が多いだろうから省く。
個人的には松田聖子はデビュー前に「この子はガニ股だから売れない」とレコード会社の偉い人に半年間、歌が入ったテープを聴いてもらえなかったこと、
中森明菜の母親は6人兄妹に1人ずつ部屋を与え、更にそれぞれの部屋にテレビとステレオを買ってあげたということを初めて知った。
この本で意外だったのが、俺が子どもの頃に何となく見ていたTBSの「ザ・ベストテン」というテレビ番組が実はめっちゃ画期的な歌番組で、日本の音楽界を大きく変え、その影響が現在にも及んでいるということ。
1979年1月にこの番組は放送を開始した。
日本音楽界に大きな変革をもたらしたらしい。
「日本音楽界」と言っても大きく2つに分かれる。
テレビに出る人 / 出てくれない人
の2つに分かれる。
前者は演歌・歌謡曲・アイドル、
後者はロック・フォーク・ニューミュージック、
にザックリと分類されると思う。
前者を「オモテ」、後者を「ウラ」と呼んでもいい。
現在もツイッターでは「分断」というか2手に分かれて論争してたりする。
日本音楽界だけでもオモテとウラと2つに分かれていたし、ウラの中でも「お前はロックなのかフォークなのかハッキリしろ」みたいに2つに分かれていたし、日本ロックの中でも「ロックは英語で歌うべきか日本語で歌うべきか」と2つに分かれて論争してた歴史がある。
ネットが生まれる前から2つに分かれて論争するのが好きだったようである。
70年代はテレビに出る・出ないでかなり分断していたようで、
ロックギタリストの大御所、Charは阿久悠と組んで「気絶するほど悩ましい」等の歌謡ロック路線に行った時、「ウラ」側の人間から「悪魔に魂を売った」と言われた。
また、はっぴいえんどのドラマー、松本隆は作詞家として「木綿のハンカチーフ」をヒットさせた辺りで「ウラ」側の人間から「裏切り者」と言われている。
ここで書くのは「オモテ」の日本音楽界の話。
話を「ザ・ベストテン」に戻す。
1つ目の変革は、日本に「ランキング」という概念を定着させたこと。
オリコンが1968年に生まれているが、「オリコン1位になった!」と騒いでたか?という疑問がある。そこはよく分からない。
本書によると
「ザ・ベストテン」が画期的だったのは順位の根拠を明確にした点だった。
1. オリコン等の複数の調査会社によるレコード店での売り上げデータ
2. 有線放送のデータ
3. TBS系列の全国のラジオ局のランキングデータ
4. 番組に届くリクエストハガキ
この4つのデータを数値化し、総合点を出して発表しますよ、というのを番組内でハッキリ言った。
え?当たり前でしょ?と今の感覚だと思ってしまうが、当時、「根拠が明確なランキング」は皆無だった。らしい。
そして、「ランキングの10位→1位の順番に歌う」ということを初めてやった。
この「10位から順番に歌う」というのが当時は大きな変革だった。
ザ・ベストテン以前の歌番組は年功序列だった。
若い歌手は人気のあるなしに関わらず前座扱い。そして最後は演歌の大物歌手が締める、という基本パターンがあった。
対してザ・ベストテンは「10位から歌う」ことが決まっているので大物演歌歌手が出演しても順位で上回らない限り、アイドル歌手の前座扱いである。
当然と言えば当然だが、それまでそんな歌番組はなかったらしい。
また、スタジオに来れない歌手は番組側から中継車を出す。コンサート中でも移動中でも、また海外に居ても番組側が追っかけて歌ってもらう。そして「ウラ」のミュージシャン、テレビに出ない人がランクインしても「出演交渉をしたけど断られました」とハッキリ言う。これは「出てくれないならランキングから外すよ」ということをしなかった、ということ。
めっちゃ誠実なランキング番組である。
テレビがメディアの中心だったのに、それまでそんな誠実な歌番組はなかったのだ。
そりゃ当時の若い人は見るよ。
この番組の登場により、殆どの日本人は「曲のランキング」というものを初めて意識することになる。
と、ここまで書いて気になった。
坂本九さんが全米1位になってるよね。
「上を向いて歩こう」で。「SUKIYAKI」って曲名で。
スキヤキってオマエ…
これが1963年6月15日。全米1位。
当時、実際どうだったの?と調べてみた。ウィキペディアで。俺のエビデンスは記憶かウィキペディアです。
「上を向いて歩こう」のウィキペディアにはこう書いてる。
『当時、「夢であいましょう」の出演者の一人だった黒柳徹子は、当時の日本に「ランキング」というもの自体が無く、ましてや「全米ビルボード1位」というのが、どれほどすごいことなのか分からず、坂本九がアメリカから帰って来た時も「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」として、世界各国で発売されていることは知っていたため、それに対して「すごいね」とは言ったものの、「よくやった」、「おめでとう」という言葉を、当時の坂本に言うことが出来なかった。作詞の永六輔や作曲の中村八大も、特に喜んでいる素振りもなく、普通にしていた、と後に語っている』
らしいのですよ。坂本九さん自身が「ビルボード1位ってナニ?」だったので、マスコミも全く報道してない。
だから日本人の一般人は「坂本九が全米1位になった」ことを1963年当時、知らんかった可能性がある。
疑問がある人は関係者に取材するなどしてください。
「ザ・ベストテン」の大きな変革の1つは「ランキング」を日本人に教えたこと。
2つ目。これは現代に繋がってるんだけど
現在の「推し」に近いものをこの番組は生んでる。
俺自身は「推し」という概念はよく分かっていない。
それぞれ「推し」ってものの捉え方が違うかもしれないし。
でも「推し活破産」なんてのも聞く。金を推しに使うらしい。
娘も言ってた。
「推しが増えると出費が増えるのでガマンしてる」って。
本書にはこういうことが書いてある。
ザ・ベストテンの登場で
「いい曲だからヒットする」
が
「ヒットしてるからいい曲」
に変わった。
と。
これは映画なんかにも通じるかもしれない。
「あの映画、興行収入がスゴいらしい。んじゃ俺も見に行こう」
とか。実際、映画のポスターに「全米で大ヒット!」的なことが書いてる。
ヒットしてるってことは面白いんだろう、みたいな気持ち。
この本を読んでて、これは今の「推し」に近くない?と思う箇所を以下に引用。
「ファンは、どんな曲なのか全く知らない状態で新曲を予約するようになった。いい曲で、もっとちゃんと聴きたいからレコードを買うのではなかった。『レコードを買う』行為が、『音楽を聴く』ためではなく、その歌手に対する『支持の表明』行為になった。歌番組へのリクエストも『聴きたいから』『見たいから』ではなかった。その歌手の人気があることを世の中に知らせる為の行為だった」
また
「ファンは忙しかった。発売直後にレコード店に行き(厳密には新曲発表の時点で店頭予約し)、ラジオの歌番組にリクエストのハガキを出し、『ザ・ベストテン』にもハガキを出す。そうやって、自分の支持する歌手の曲をヒットさせなければならなかった」
と書いてる。
今の「推し」とは違うかもしれない。
でも確実に「ファンの努力で好きな歌手の曲を『いい曲』にする」
という現象が生まれてる。
聖子と明菜の方も争う。
聖子側「なんだと!明菜のセカンド・ラブが1位だと!んじゃもう、ユーミンだ!ユーミンに頼むしかない!あと…ちょっとエロを滲ませろ!『秘密の花園』にしろ!隠語っぽいだろ?何?ユーミンは先に曲を作るからイヤだって?松本!松本隆!オマエがユーミンに謝ってこい!」
明菜側「なにが秘密の花園だ!ドスケベが!オマケにユーミンまで使いやがって!オイ!また少女Aみたいなヤンキー路線に戻るぞ!この大沢誉志幸って新人、イイ曲書くから!なあ大沢!作詞の売野!オマエは誰のおかげでメシ食えてんだ?バシッ!(ビンタ)なんだその目は売野!ナメてんのオレを?ナメてんのか!バシッ!(ビンタ)いい加減にしろよコラ!…あ、今のいい加減にしろってイイなァ。オイ明菜!いい加減にしてって言ってみろ!イイじゃねぇか。今の聞いたか売野!聞いたのか?オレが聞けって言ってんだから本気で聞かないと。『いい加減にして』って歌詞に入れろ!これも技術のうち!」
…まあ、そんな裏側があったと思うんですよね。
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