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清水崇『樹海村』-Jホラーの呪縛とエンタメホラーの行方-

本当は『swallow』を観ようと思って新宿バルト9に出かけたのだが、まさかの満席で途方に暮れた僕は、仕方なくほぼ同じ時間に上映されていた『樹海村』(先行上映)を観ることにした。突然の予定変更だったので、まだ見ていない『犬鳴村』ヒットを受けての「~村」シリーズなのかな?くらいの前知識しかなかったし、なんなら上映開始時間を勘違いして最初の10分くらい見逃してしまった(ゴメンナサイ)。僕が映画館に入った時はちょうど、生配信主?の女の子が『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』よろしく樹海で大騒ぎしているところだったけど、その後のストーリー理解に全然影響は無かったので、大事な情報を見落としたってことはないんだと思う。

Jホラーの旗手・清水崇

清水崇といえばJホラーを代表する作品『呪怨』シリーズの生みの親であり、特にハリウッドリメイク版の『The Grudge』シリーズの監督を通して”Japanese Horror”を世界的に知らしめた人物だ。ただ、清水崇をJホラーの中心人物として中田秀夫や鶴田法男、黒沢清、高橋洋らと並べて語るのはあまり適切ではないと僕は思っている。

Jホラーの始まりは、小中千昭が中心となって構築した恐怖表現に関する理論体系である「小中理論」を理論的基盤とし、石井てるよしの『邪願霊』、鶴田法男の『ほんとにあった怖い話』「霊のうごめく家」を聖典的作品として中田秀夫、鶴田法男、黒沢清らによって製作された一連の作品群だ。映画作品としては『女優霊』『リング』『CURE』『回路』であり、それに先立つ形でTVドラマシリーズとして『ほんとにあった怖い話』や関西テレビ版『学校の怪談』などが該当する。この時代(80年代末~90年代)に所謂Jホラー的表現を共有した作家性の高い作品が集中的に作られた背景としては、80年代ハリウッド以降のスプラッターホラーへのカウンター及び主に60年代ゴシックホラー(『回転』『たたり』『チェンジリング』等)への接近と、「宮崎勤事件」によるスプラッター映画排除に動く社会的背景があったとされている。

ちょうど『ほん怖』が世の中に出た頃に、宮崎勤事件が起きたんですよ。それで、TSUTAYA がホラーを全部引き下げますっていうんだけど、面白いことに僕の『ほん怖』は引き下げられてない。つまり、当時世の中が言っていたホラーっていうのはスプラッターホラーなんです。だけど、僕が考えているホラーには残酷描写はないんです。(『Jホラー、怖さの秘密』鶴田法男監督インタビュー)

そんな彼らをJホラー第1世代とするならば(小中千昭自体はJホラーではなくファンダメンタルホラーという表現を用いている)、清水崇はJホラー第1.5~2世代に位置している。彼は映画美学校で黒沢清らから映画制作を学んだ身であり、第1世代の恐怖表現に対し限界と乗り越えの必要性を感じていたことが以下のインタビューからも伺える。

本当のことを言えば、僕も鶴田法男監督とか脚本家の小中千昭さんが最初始めた、端っこに映ってるだけとか、ぼんやり立ってるだけだけど怖いっていう、そっちの方が上品だし好きなんです。ただ、『女優霊』もそうですけど、それを鶴田さん、小中さんが作り出して、黒沢清監督とかが絶賛して、いろんな監督がその手法を真似ていって……。で、『リング』とかが当たったら、ぼんやりこっそりいるのが怖いっていうのが、世間的に当たり前に認識されつつあったので、それを今更ひと回りぐらい年下の僕がやっても意味がないなと。何か違うことをしなくちゃ面白くないなって考えたんです。でも、半透明に見せたりしたら、それは説明になっちゃって描写ではない。じゃあどうしようっていうので、もう正面切って映してやろうってことに行き着いた感じなんですね。(『Jホラー、怖さの秘密』清水崇監督インタビュー)

そう考えると、TVドラマ版『学校の怪談』のショートストーリー「片隅」「4444444444」をきっかけに生まれた『呪怨』シリーズにおける、Jホラーの文脈を踏まえた上で徹底される物質的な恐怖描写は清水崇なりの第1世代の乗り越えであり、彼のオリジナリティである(結果この路線はハリウッドでもウケたし、Jホラーといえば『リング』『呪怨』という違和感のある評価がされるようになった)。

僕は清水崇の作品を全部観ているわけではないけれど、『呪怨』シリーズや『輪廻』『戦慄迷宮3D』『ラビット・ホラー3D』『こどもつかい』(『魔女の宅急便』は見たけどここでは無視)に共通するのは、ホラーを基盤としつつもあちこちから漏れだしてくるSF、ファンタジー要素であり、近年は特にその要素が強くなってきている。

『呪怨』『輪廻』における時系列シャッフルや異空間の共存といった設定はまだ恐怖を盛り上げるギミックとしての意味合いが強かったけれども、ほぼSFの世界観だし、昨年配信されたNetflix版の『呪怨』はその時系列SF感を前面に押し出した作りになっていた。『戦慄迷宮3D』『ラビット・ホラー3D』は制作背景がだいぶエンタメ寄りだった関係で普通に面白くなくてあまり内容を覚えていないけど、幻覚、妄想が絡んだ話だったと記憶しているし、『こどもつかい』は完全にティム・バートンみたいなダークファンタジーだった。そう考えると、今回の『樹海村』もホラーと見せかけたダークSFファンタジーととらえた方が適切だろう。

『樹海村』におけるネット圏ホラー

『樹海村』のストーリーにおけるホラーギミックは「コトリバコ」と「樹海村都市伝説」の二つである。「コトリバコ」は2ch発祥のいわゆる「洒落にならない怖い話(洒落怖)」の有名なエピソードだ。僕も洒落怖はかなり読んだので(「裏S区」「リアル」「危険な好奇心」が特に怖かったな)、そこまで印象には残っていなかったけど、「コトリバコ」はたまたま見つけた物が昔から伝わるヤバい呪具でした、系の話(「両面宿儺」と同系統)でもともと樹海は関係ない。

『樹海村』においては、このコトリバコ(「コトリバコ」という名称は序盤に一度だけかなり強引な形で言及されるだけで、それ以降は一貫して「箱」としか呼ばれないため、実は「コトリバコ」ではないのかもしれない。「箱」の呪殺範囲も原作とは異なり、その制作理由も原作では迫害に対する復讐とされているが、『樹海村』については不明である)が、「樹海の中にある謎の村」と絡めて語られる。「樹海村」都市伝説についてはよく知らないが、作中の描写を見る限り、自殺未遂者、口減らし、サンカ伝承を混ぜたような設定のようだ(『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』に出てくる木の枝で作った魔女の印、のような演出があったがあれはサンカ伝承のひとつだ)。

「コトリバコ」も「樹海村」もネット発のゼロ年代的なホラーギミックだが、これらのある意味7-80年代の海外ホラーで見たような設定(「コトリバコ」は『ヘルレイザー』『死霊のはらわた』系だし、ヤバい村系は『サランドラ(ヒルズ・ハブ・アイズ)』『悪魔のいけにえ』路線だ)がネット圏を通じてホラー・オカルトと相性のいいネット民に消費され、映画コンテンツにまで成長するというのは何だか不思議な感覚だ。

清水崇印な恐怖演出

勿論そこに清水崇らしい演出もしっかり加えられており、特に日本家屋における隙間と奥行きの不穏さ、気持ち悪さを横に平行移動するカメラの長回しとダブルフォーカス、トリプルフォーカスで見せるショットが登場する前半の不安描写は流石だ。また、『リング2』『呪怨』等で定番化したとはいえやっぱり怖い「勝手に動く/歪む映像」のしっかり気持ち悪い現代アップデート版を見られたのもよかった(『貞子3D』シリーズや2019年の『貞子』もPC画面やYouTube映像で似たような演出をやっていたけど、かなりスベっていたので尚更うれしかった)。

また、ストーリーは姉妹愛や家族愛、自己犠牲といった線で辛うじて繋がっているんだけど、その過程で訪れる死があまりに唐突で理不尽極まりない。この理不尽さは、もちろんびっくり要素というエンタメ性な部分もあるけれど、Jホラー最初期から受け継がれ、それまでの怪談モノとは決定的に異なっている部分だ。因果応報の論理が通用しない、「ビデオを見た⇒死ぬ」「家に引っ越した⇒死ぬ」という理不尽の系譜はしっかりと『樹海村』でも描かれている。(何なら死んだあともなんであんなことになっているのか全然意味が分からない)

あと、『樹海村』でおや?っと思ったのは、ドランクドラゴン・塚地演じる精神科医の口から「統合失調症」という単語が語られたことだ。僕の知る限り、邦画ホラーで特に霊能少女、霊感少女の異常行動に対して「統合失調症」という元も子もない宣言がされているのは見たことがない(精神病棟自体は頻繁に登場するが)。もちろんその後の展開によって、「統合失調症」という診断自体の統合が失調するのだが、アリアスターが『ミッド・サマー』で幻覚剤のトリップを客観ショットにおける画面の揺らめきによって表現することで観客の認知を揺さぶってきたように、清水崇もホラー映画ファンが当たり前に受け入れるスクリーン上での怪奇現象について現実的な言葉を突き付けることで揺さぶりをかけてきたのだ。

エンタメホラーはどこにいくのか

しっかりホラー映画として進行していた『樹海村』は、後半にかけてSFファンタジーの様相を呈してくる。『呪怨』『輪廻』以来お馴染みの時間軸の混在に加え、「異世界としての樹海村」の顕現とそこの住人からの逃走劇。植物なのか人間なのかも分からない異形からの逃走という意味では黒沢清の傑作『木霊』が想起されなくもないが、あまりにハリウッドのSFパニックなビジュアルだったので、かなり面食らってしまった。

最近の清水崇の作品は、終盤のダークファンタジー的な展開に対し、家族愛や自己犠牲によって打ち勝つ、というストーリーが一つのテンプレ化しており、『樹海村』もその系譜に乗っている。とはいえ、終盤の展開に可能性は感じるものの、前半から中盤にかけてのホラーサスペンスパートと比べて明らかに面白くなくて、エンタメとしても今一つである。少し前の『ドクター・スリープ』のように、超能力バトルみたいのが始まるのか!?と期待したんだけど、本作の主人公は索敵・感知特化型だったようだ。

近年の面白い邦画ホラーの傾向として、『フロム・ダスク・ティル・ドーン』並みに中盤以降でホラーをエンタメにちゃぶ台返すタイプ(『来る』『カルト』)と、最後まで基本に忠実にホラー路線を貫くタイプ(『残穢』)とがあると思っているけど、清水崇の作品は、『来る』ほどは突き抜けていないエンタメ寄りの作風だ。個人的には『輪廻』『呪怨2』や『呪怨/パンデミック』のように、ホラー路線を貫きながらもエンタメの強度を上げていくスタイルが好きなのだが、今後彼はどんな脚本を書いていくのだろう。個人的にはエンタメ起点でホラー着地の映画が見てみたい気もする。

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