人魚歳時記 卯月 後半(4月16日~30日)
16日
朝、ウドをいただきに駅前のT宅へ伺う。犬の散歩を兼ねているので遠回りする。
菜の花の向こうで耕運中のトラクターを、少し離れた所から白鷺が見守っている。墓場で蛙が鳴いた。椿の根元は落花で一面赤い。
美しい朝。
キンピラ。天ぷら。ウドをどう食べるか考えて歩いた。
17日
あまりにも顔がぼんやりしているから、きっちりお化粧をしたら、知らない顔になった。
冬の間、体の奥に押し留められていたものが、暖かくなって一気に面に出てきたみたいだ。
なんとなく指輪がキツイ。指も浮腫む陽気だな。
18日
地方紙にくるまれたウドは、ずっしり重かった。土がまだ少しついていた。
葉は緑の天ぷらに。
あとはきんぴら。白く瑞々しいもち肌に、お醤油が茶色く沁みていく。
苦みはない。ツンとした香り。雅やかな香りだと感じた。土の中にいたのに、垢ぬけた品の良さ。
19日
朝の散歩。麦が育っている。
私の腰の高さまで、まっすぐに伸びた穂が早朝の光に照らされ、銀色に光っている。ずっと向こうまで。
リートで繋がれた私と愛犬の影が、その銀色に映って、一緒にどこまでもついてきた。
20日
昨日、強風。
お腹がペコペコで途中下車。見知らぬ田舎の駅前。古い純喫茶でナポリタンとコーヒー。
髪が風に乱れている。
「風で落下物が飛んできて、さっき鉄橋の上で電車が止まって」
女店主が話すと、カウンター席の常連客は、
「外は陽が眩しくてピカピカしてるよ」
21日
今はもういないコタロウの、
犬小屋がまだ置いてあるH宅の庭に、
今日は黄色いモッコウバラが満開だった。
22日
大きな藤棚が近所にある。
そこは何年も前に店を畳んだ食品雑貨店の裏。藤棚の下は、青紫に透き通る陽の光が満ちて、ひんやりとしている。
写真を撮っていると、違和感を感じた。
見ると、袖をまくってあらわにした腕を、どこから来たのか蟻が一生懸命に這い上がってくる。
23日
曇り空の下、犬と古い集落に入り込む。躑躅や芝桜が鮮やかだ。矢車菊には支柱が添えらている。そして人が見あたらない。静かだ。
(幽霊になってさまようって、こんなかしら)とふと思い、「どこかで春が」と歌った。
集落を出ると、麦の緑の中を走る赤い郵便屋さんが見えた。
24日
春の冷たい雨の一日。
数年前に逝った愛犬は、こんな雨の後に散歩に連れ出すと、濡れた未舗装の道でも平気で座り込み、後ろ脚で顔を掻いた。
足についた泥で、たちまち汚れた顔が可愛かった。牝だけど、わんぱくな顔で可愛かったのを、雨を眺めて思い出した。
25日
早朝の麦畑。風に傾ぐ麦穂が朝陽を浴びて銀色に光る。風の吹くままこちらから向こうへ、銀色の帯が流れていく。
波みたいだ。
くすんだ水色の空の下、広がる緑の海。畑の隅に丸く浮かぶツツジの赤を、ヨットに見立ててみたりする。
気がつくと、波打ち際に立っている。
26日
草がものすごい勢いで生えてくる。
クローバーに呑み込まれそうな薔薇の鉢をどかすと、草と鉢底の隙間で、今年生まれたらしい黒蛇の子がとぐろを巻いてじっとしている。
暖をとっているのか?
クローバーをちぎってかけてやる。
27日
田圃の中の高架道路下のトンネルの、暗くて冷たい通路に白蝶が一頭落ちている。
吹き込む風に、片翼が揺れていた。
何気なく身を屈めて手を伸ばすと、糸のみたいな触角が、こちらの指先を嫌って震えだす。
もうすぐ、この薄暗さの中で消えていく、あまりに小さな命ひとつ。
28日
早朝、犬の散歩に。旅行鞄を転がして駅へ向かう女性とすれ違う。いいなぁ、あなたがいるから行けないよと、犬に言ってみたり。
田園の中に入ると、昨日はなかった花があちこちに、空は雲雀の声に満ちている。日常の窓から眺める季節は、急行列車のスピードで動いて
29日
朝の五時前に目を覚ますと、空がもう明るくて驚いた。冬物衣類を整理していると、ポケットから冬に拾ったドングリが出てきた。耳元で振ると、中の実がすっかり乾いてカラカラと音をたてる。
冬は遠い。
明け放した窓からピューッと吹き込む風が、本のページを勢いよく捲る。
30日
暑くなってきて、夜は暗闇の中で、虫がジィーと鳴く。夕食後、開いた窓から、遠くの踏切の音が風に乗って急に聞こえたり。
夜風に吹かれて怪談やホラー小説を読み耽る。しばらくして、冷えてきたなと窓を閉め、夜気と怯えを締め出すと、そそくさと布団に潜る夜は楽し。