頭でっかち

 こんばんは。note更新してる時間で色んなことができるのにあえて無駄文章を書く!!!私はよく「言語化がちゃんとできる」と言われる。確かにふさわしい言葉を頭で吟味して、一番気持ちに近い言葉を口に出す、という作業を感情の言語化でやるのだが、私はそれを結構楽しめる。かたむすびになっていたり、もやがかかっている悩みや、心に引っかかっている原因を明るみに出す作業は心が軽くなる。話してみたり、ノートに書きだして優先順位をつけたり、そういうことは馬鹿にできないと思う。こういう事を書いちゃうと、文章が上手に書けたり感想文が得意とか思われそうだがそれはまた別の話ですので…。
 私が「言語化できる」寄りの人間であると言われるという事は、少なくはない人たちが「言語化できない」ということになる。どうしてこんなに苦しいのか、何が困難であるか、うまく説明できないのは大変だろうな、と他人事ながら思う。
 
 話はかわって、私は今年とある試験に合格した。私なんかの為に、私なんかより私のことで喜んでくれる人が結構いてほんとうに驚いた。そのことは幸せだと思ったし、だがどうして?とも思う。私なんかに興味ある?と思う。私あなたが思うようなたいした事してないしこれからもできないと思うのに。自尊心が低い。多分認知が歪んでいる。
 試験は6割で合格、合格率は例年30%だ。私は合格率30%試験の試験対策をした。図書室で7時間勉強して足がつりながら帰ったりしていた。最後の模試は上位16%だった。試験の結果も自己採点で8割とれていた。合格だろうなと思った。
 合格発表の日。ドキドキしながらサイトにアクセスする。マークがずれているなどなかったようで私の受験番号も無事に載っていた。合格点は6割。これは例年通り。しかし合格率は60%だった。私は合格に対する喜びより合格率の高さに対する苛立ちの方が強かった。私が勉強した時間ってなんだったんだろう。ゆるくやって私生活も充実している人が合格したんだ。
 この学問にはこういう現実があります。私が受けた試験は筆記であったが、その学問はなにより「実践」を重視していることです。私は現場での実践の経験なんてなかった。その試験を受ける多くの人がもうその現場で働いている、毎日「実践」で学んでいる人たちだ。8割とって未経験の私と、6割とった経験者、どちらも合格だが、どちらが重用されるだろう。どちらが活躍できるだろう。そんなのわかりきった話である。
 お勉強ができるおりこうさん。意識の高い大学生みたい。頭でっかち。頭がでかすぎてちゃんと自分の足元が見えてないんじゃないのか?頑張って勉強したことが逆にコンプレックスになってしまった。今もいろんなところに知見を得るため足を運んでいるがそのコンプレックスがより強まるばかりである。もう自分が何を、何のために頑張っているのかよく分からない。だが、急がなくては、急がなくてはという気持ちはずっとある。

 ↑を書いて少し経ってから、いま続きを書いています。  
私はこの人生の中でダメ人間がやることは結構やってきた方なので変な経験が多いのだが、そのことを色んな人に助けられて乗り越えてきた。だけどそれって私の努力ありきだな、と3日前くらいに気づいた。落ち込んでいる人ややらないという選択肢を取った人に対して「私もこうだったから大丈夫!」は必ずしも安心にならないんだって。
 例えば大学。勉強だけが全てではないので卒業したい、という心意気があれば、後は学務や教授などを頼っていけばなんとかなる。ちなみに初めて言うけど私は現役で合格したものの、留年も休学もしていて、学年がずれたので同時に友達もいなくなってしまった。学務や学内カウンセラーや教授を巻き込んで、無理のない時間割を作って単位が取りやすい授業を紹介してもらって、カウンセリングを多くしたりとか、そういう支援を私は受けた。私はこの人達がいたから卒業できたと思っていたけど、実際に学校に這ってでも行って、泣きながら授業を受けたのは私だ。私ががんばったからだ。ずっと大学の図書館にこもってレポート書くのだって私だった。つらくて授業を抜け出して、トイレでライターで砕いて鼻から吸ってキャンパス内をさまよったり、外階段の4階でボーっと外を眺めていたら保護されたりもした。ほかにも迷惑なことをした。それを「なんとかなるよ!」と他人に推奨できるだろうか、そんなわけないな、と気づいた。そう気づいてから、心の中のずっと歪んていたことが少しずつ正常になってきている気がする。「なんとかなった」とかいう結果論じゃない。その間に、言葉通り「死ぬほどつらい根性論」があった。私の場合。エンパワメントなんかじゃない。だったら「なんとかしなくていい」し「そんなにつらそうにしないでほしい」って思う。たぶん「なるようになる」とか言っている方がいい気がする。この言葉の意味って全然理解ができない、身をもってという意味で。ずっとなんとかして生きてきたから。

 こういうふうに顧みると、本当に忘れていることが多い。生活史を語る場面は人より多いはずだが、そのたびに思い出すことも多く、もっと自己分析が必要だと感じられた。私は人にやさしくすることができるんだろうか。その人が言ってほしい言葉が言えるんだろうか。また、「なんとかする」時がきたんだと思う。もう少し心にゆとりをもっていたいのだがなあ。

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