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事務局のひとりごと③

芸工大校友会事務局のカンノです。

大学WEBに掲載している2本、そしてnoteで3本、計5本の記事を掲載させていただきました。
同じ意味の言葉でもそのニュアンスが微妙に違うので、それも含めて言葉選び迷っています。
経験浅すぎる私が言うもなんですが、ライター作業って大変なんですね。

スタートはわたし

『TUAD OB/G Baton』をスタートするにあたって最初の取材対象者の人選については私に一任していただいたので、不慣れな私でもスムーズに取材を進めることが出来ているところです。みなさんのご理解とご協力には感謝しかありません。

私が何本ものバトンを持って走り出し、知人友人に声をかけ、バトンを受け取ってもらい、今につながっています。
なのに、私自身については何も語っていませんでしたので、本編『TUAD OB/G Baton』の合間の暇つぶしにでもしていただければ、と思います。

”試される大地・北海道”からやってきました

私も芸工大の卒業生(8期生)です。デザイン工学部生産デザイン学科に1999年に入学しました。(年齢がバレます。)
ゼミ担当教員は渥美浩章先生(現名誉教授)でした。
北海道から大学進学を期に来て以来、気が付けば山形歴の方が長くなりました。

キラキラしてない”女子大生”

地元や、札幌、東京などの学校に進学した友人たちが会うたびにキラキラしていくのに比べると、何ともキラキラの足りない女子大生でした。
徹夜で書き上げたレポートを突き返されて二徹に突入したり、徹夜で正常な判断ができないまま、朝からコンビニでヘアブリーチを買い込み金髪にしたり、友人と原付で夜道を歌いながら走ったり、朝までゲームに興じたり、課題に煮詰まりすぎて現実逃避カラオケでひたすらに小沢健二を歌ったり…キラキラとは程遠いけれど友人とした勉強以外のことばかり思い出します。

北国生まれは南にあこがれる、なのに就職は突然に・・・

卒業後は山形を離れようと思い、東京など関東を中心に就職活動を行っていました。北国はもういい!南へ行きたい!その一心でしたが見事玉砕。
就職活動にも疲れ果てたころ、就職担当の職員の方から紹介されたのが山形市内の広告代理店でした。
「ここを受けてダメだったら就活辞めます!」宣言を声高らかにして、いざとなったら東京の姉のところに転がり込むことを密かに考えていました。
そんなだいぶ力の抜けた状態で受けてみたところ、就職が決まりました。

デザイナーでの採用を希望していましたが、社長から直々連絡をいただき、「企画をする人が欲しいのでそのポジションで来ない?」という何とも軽いタッチのお話から、電話口で就職が内定しました。

広告代理店≠キラキラ

山形市内の広告代理店・株式会社ハイスタッフに就職が決まり、友人などには「広告代理店ってなんかキラキラしてるイメージ」と言われて、ちょっと良い気になったのも束の間、私は就職から半年にまだ満たない頃、直属の上司が主担当で担当していた某企業の某展示会開催会場(幕張メッセ)に置き去りにされるという洗礼を受けました。衝撃的すぎて今でも忘れられません。
その時の上司の紹介はこうです。
「うちの肝臓担当です。(意訳:飲めるので問題ありません。)」
おかげで連日二日酔いでした…。

その後も、山形県内のダムの構造を勉強して堤体内を案内したり、冬季国体の準備のために山形県最上町での軟禁生活に堪えたり、愛知万博の施工・運営・撤収のためほぼ24時間働き続けたり、上司の意見と対立しながら真っ向勝負したコンペを勝ち取ってドヤ顔したり、大小様々な仕事に携わる貴重な経験を積むことはできましたが、そこはキラキラとは程遠い世界でした。

日々ご飯に何を食べていたのかも覚えていないくらいに忙しかったですが、充実していたことは確かです。(仕事以外の記憶がありません。)
約5年が過ぎた頃、ひたすらに若さで乗り切った無理がたたったのか、体調を崩すことも増え、業務に支障も出るようになってしまったため、退職をすることにしました。

ここから私は「さすらいの嘱託職員期」に入るのですが、その話はまたいつか。

東北芸術工科大学校友会事務局 カンノ

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