黄昏の告白
病院はゆるやかな坂の上にあった。
自宅からは一駅先の、そこからバス停2つ分先だ。
循環バスは運転手不足なのか、以前に比べダイヤに鬆が入っているようで、時刻表のいくつかの時刻は背景と同じ色のシールで隠されていた。
だから時間が噛み合わなかった時は、足腰の鍛錬も兼ねて、その坂を上った。
齢70も過ぎると、意識して体を動かさないと、どんどん衰えて行く。
もう顔見知りの病院受付は、私の顔を見ると「あ、いらっしゃい。どうぞ」と、エレベーターの方を指し示した。
途中、すれ違う看護師も、やはりお互いに顔を見知っており、みな会釈をしてくれた。
妻の病室は4階の一番奥にある。本来、3人部屋だが、2つは空床なので、妻専用の一室になっていた。
入り口にある目には見えない薄い膜をくぐって、病室に足を踏み入れた。
ここは異界なのだ。
そして妻は異界に囚われている。
呼吸補助器から伸びるチューブが鼻に繋がる姿は、何度見ても痛々しく、見慣れる事はなかった。腕に射し込まれた抗ガン剤の点滴が、顔から気色を失わせていた。
「今日も・来て・・くれたんですね」
力なく発せられる妻の言葉は、こちらの耳に届く前に、ポロポロとシーツの上にこぼれ落ちていくようだった。
「ああ、毎日来るよ」
実際、豪雨の一日を除いて、毎日この病室へ通っていた。
ベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろすと、すぐに担当の看護師が花瓶を携えて入室して来た。
「これでどうでしょう?」
「ああ、ありがとうございます。申し分ありません」
先刻手渡した花を、病院に備わる花瓶に移して持って来てくれたのだった。
同時に病身へ花粉の影響がないかのチェックも行っているらしかった。
「いけませんよ・・、お忙しい・・んですから・・」
「気になさらないで下さい。今、空床が多いので余裕があるんです」
「そうだ。長男が有田みかんを箱で送ってくれたんです。妻に絞ったみかん汁だけでも飲ませてやれないでしょうか?」
「そうですね。先生に聞いてみます。お帰りの時にナースステーションにお立ち寄りください」
夫妻に笑顔を向けて、看護師はステーションへと戻って行った。
一度、看護師あてに菓子折り手渡した事があった。
「今回は頂戴しますが、規則で受け取れない事になっているので、今後はお気遣いなく」との弁が返ってきた。
知人からは、規則であるからというだけではなく、「差し入れをしなくてはいけない」というプレッシャーを患者と見舞客に抱かせたくないからなのだと教わった。
「お花・・、千寿菊・・なんですね」
「ああ、そうだよ。千寿の長生きの菊だ」
「初・めての・・」
「そう、初めて2人で一緒に買った花だね」
ベッド脇のチェストボードの上に飾られたその黄色い花冠を、しばらく2人で見つめた。
「剛士も和俊も、時間を作ってまた来てくれるって」
それは方便だった。実際にはどちらの息子も、入院した直後に訪れたその一度きりの後は、父親からの催促に応じてはくれなかった。
上の息子は和歌山でデパートの経営企画部長に就いており、届いた有田みかんも、貰い物を使い回したものだろう。
下の子は、普段からなしのつぶての奔放なタイプで、どちらも親孝行などあまり気にしていない。
「女の子が良かったかなぁ・・」
数年前の元気な妻に、そう漏らした事がある。
妻は「私は男の子を育てるのは、面白かったですよ」と、笑ってそう言った。
「ご近所の香川さんが、一度お見舞いに来たいって。でももう少し病状が落ち着くまで待ってもらおうかと思って」
「そう・ですね・・」
「婦人会の有本さんも、来たがってるんだけど、膝の具合が悪いからあまり外出したくないみたいだ」
「そう・ですか・・」
入院当初はかすかに胸が上下した呼吸も、最近はそれが判らぬほど微かになっていた。
きっと言葉を発するのも負担だろう。
診断を受けた時には、すでに膵臓ガンはステージ4で、医師からは「出来る治療は限られている」と告げられた。
その日の内に妻は入院し、一人きりの帰り道は何も憶えておらず、気付いたら自宅の中に居た。
在宅での看病は、病状を悪化させる可能性が高かったので選択肢から外れた。
それで正解だったのだろう。
この姿の妻を自宅の風景の中に置くのは、自分にとって耐えがたかったと思う。
自分は、それを直視できない小心者なのだろう。
歳を取ると、新しいトピックはすぐに尽き、自然と思い出話になる。
「こんな事があった」「あんな場所に行った」と自分ばかりが語るのを、妻は黙って聞いており、時々うなづいて、時々微笑もうとした。
その無理に作ろうとする笑顔すら、もう精一杯のようだった。
握った手を、話の合間々々に軽く力を入れて、それを「もう、何もしなくてもいいんだよ」というメッセージにした。
自分自身も、妻の顔を見続けるのが苦しく、握った手だけで2人の繋がりを感じていた。
そう、初めて2人で買ったのが、この千寿菊だ。
70歳を過ぎて、もう羞恥心なぞないと思っていたが、それでも花屋の前で少し躊躇した。
意を決して、店員にこの花の名を告げ、幸いそれは品揃えの中にあった。
2人が初めて一緒に出掛けたのが、通学電車の沿線にある菖蒲園の『花しょうぶ祭り』だった。
園を出る前に販売コーナーで買い求めたのが、菖蒲ではなく千寿菊の鉢植えだった。
それぞれが選んだものを交換し、それぞれの自宅で育ててみようと示し合わせた。
初めて手を繋いだのも、その菖蒲園だった。
それから今まで、何度この手を握ったろうか。何度、この感触を確かめただろうか。
高校生の頃、通学の駅のベンチで定期券の忘れ物を見つけ、それを駅員に届けた。
拾得者として記した電話番号に、後日、電話がかかって来て、受話器の向こうのかわいらしい声が「直接お礼を告げたい」と望んだ。
それをきっかけに、通学路線が同じ2人は、車内で話をするようになり、見上げた車内吊り広告の『花しょうぶ祭り』へ観覧に行こうと、どちらからともなく誘ったのだった。
女性とデートするのは初めてだった。園内で食べたみたらし団子は、緊張して味が判らなかった。後で彼女の方もそうだったのだと聞かされた。
「女には学歴は必要ないって・・」
一緒の大学に行こうという2人の願いは叶わなかったが、彼女が就職し、自分が大学生になっても付き合いは途切れなかった。
学生結婚を決めた時、どちらの親からも「まだ早い」と反対されたのを、情熱だけで押し切った。
21歳同士の、しかも片方はまだ学生の若い夫婦の家計は、やはり逼迫した。
私が職に就いてからもあまり余裕は生まれなかった。
借金を背負いそうになったこともあった。
それでも2人で一緒にいられるだけで毎日が楽しく、苦労を苦労と感じなかった。
子供が生まれ、次いで2人目の男児が加わる頃には、生活も落ち着き、その後、思春期の息子たちには手を焼いたし、その他の紆余曲折もあったけれど、変わらず幸せだった。。
乗り越えるのは無理と思える事でも、どうにかなるものだと、涙と笑いの中で2人で学んだ。
2人の子供が手を離れ、また夫婦だけの時間が戻って20数年が経ち、このまま平穏無事に人生の幕引きが訪れると思っていた頃に、病魔が舞い降りた。
余命宣告の3ヵ月を、もう2ヵ月も過ぎている。このまま奇跡が起きて元気に自宅に戻れるのではないかと何度も期待し、何度もその願いは打ち砕かれた。
「そろそろ・・、お別れ・ですね」
「そんな事ないよ。また家で一緒にご飯が食べられようになるさ」
しばらく無言で、共に目を伏せたままの時が過ぎた。
「言って・・おかないと・・あるんです・・」
その気色から、何か重大な告白があるのかと身構えた。
「今でないと駄目なのかい?」
うっすらと妻はうなづき、苦痛を押して言葉を続けた。
「定期券・・あれ、わざと置いた・んです」
全く予想しえなかった意外な言葉だった。
「え、本当かい?、どうしてそんな事を・・」
他の誰かに持って行かれる可能性もあったろうに。妻のこの告白を不可解に思った。
「私の事・・、ずっと見てた・でしょう?」
そうだ。定期券を拾う前から、通学電車の車内で、ずっとこの女の子を目で追っていた。毎朝、毎朝。
でも声をかける度胸もなく、姿を見れるというささやかな喜びと、無為に時を過ごしているという情けなさを同時に感じながら、車内に彼女の姿を求め続けていた。
「あなたが、必ず・拾って・・くれるって」
結婚式の披露宴で「最初に見た時からピンと来てた。この女性と一緒になるって」そう列席者に向けて口上した。
その後、新婚旅行へ向かう列車の中で「私も最初からピンと来てた」と彼女は打ち明けてくれた。
その「最初」は、定期券を渡した時の事だと思っていたけれど、そうじゃなかったんだ。
妻は車内での僕からの視線にずっと気づいていて、最初に定期を見つけ、手に取るのが私であろうと賭けて、それをベンチに残したのだった。
好きになった女の子を眺める事しかできなかった自分に代わって、彼女が行動を起こしてくれたのだった。
「もっと早く言ってくれれば良かったのに・・」
「秘密・・あった方が・ね、面白い・でしょ?」
唖然とする私を見て、妻は続けた。
「怒り・・ました?」
「そんな訳ないだろう。よくぞ定期を置いてくれたと思ってるよ」
好きだった女の子から電話がかかってきたあの日、受話器を握りながら、飛び上がって喜んだのだ。
その事を告げると、妻は力なく微笑んだ。
入り陽が、病室に影を拡げ始めた。
「男はどうしたって女には勝てないんだなぁ・・」
これまでの妻の尽力に支えられてきた日々を振り返りながら、そう呟いた。
妻は力なく微笑んで首をゆっくり縦に振った。胸にしまっていた秘密を解き放ち、その後に訪れた安堵を噛みしめるように。
「・・先に行ってなさい。私もすぐ追いつくから」
「ええ・・、でも、あなたは・・ゆっくり・で」
もうじき、看護師が「そろそろ、面会時間が終了になります」と、声をかけてくるだろう。
それまでの間、2人で手をつないで、無言のまま、鈍色の夕日を見つめ続けた。
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