孤島のワンザ

海水に浸りながら丸木舟を、バタ足で沖へと運んでいた。
眼下の海底の砂地は、キラキラと陽光を反射させて輝き、黄と青のまだら模様のハコフグがワンザの視界を横切った。
丸木舟に収まっているカチュアがふいに泣き出した。
「どうしたんだい。カチュア?」
まだ喋れない女の子は、首を振りながら泣く事しか出来ない。
それでも、父親の顔を見つめ、何かを訴えていた。
丸木舟の縁に身を乗り上げ中を覗くと、娘はお漏らしをしていた。
お尻の濡れた感覚が嫌だったのか、それともそれを咎められるとでも思ったのだろうか。
「泣かなくっても大丈夫だよ」
優しくそう声をかけ、ひっくり返さないよう、注意深く丸木舟に乗り込んだ。
ヤシの木をくり抜いて作った閼伽汲み用の器で、すくった海水を中にいれ、一度お小水を薄めてから、また船の外へと汲み出した。
娘はすぐに泣くのを止めて、不思議そうに父親の所作を見つめ、「ほら、これでもう平気だ」という言葉をかける頃にはケラケラと笑い出していた。
本当に、幼い子は何が楽しくて笑うのか、何が悲しくて泣くのか、大人には予測がつかない。
スコールが急に振り出して、急に止むのと同じ様に、その表情、その感情が目まぐるしく変わるのだった。
ワンザは小さな娘を抱き上げて、海原を見せてあげた。
「海は広いんだよ。どんなに先に行っても、ずっと海が続くんだ」
ワンザのその言葉に、カチュアは不思議そうな顔で、果てしなく続く波の先を見つめていた。
ついこの前までは、海の広さを恐れ、波の揺れを恐れ、丸木舟に乗せただけで火が付いたように泣き叫んでいた。
あまりに沢山の量の水が怖いのか、揺れるのが怖いのか。幼子はそれを説明する手段を持たない。
それでも最近の彼女は、親の言葉の、その声音を読み取れるようになってきていた。
「大丈夫だよ。何も怖くない。お父さんが側にいるよ」
瞳をみつめ、そう言葉をかけると、カチュアは小さな指で海原を指さし、笑顔を父親に向けるのだった。
ワンザは15歳で結婚し、妻のラァナが身ごもったのは、その3年後だった。ラァナが石女であるかもしれないと村人は陰で囁いていたが、ワンザは意に介さなかった。
子供ができようが、できまいが、変わる事無く妻を愛した。
ラァナの月経が止まり、ほどなくしてお腹が膨れてきた時、夫婦は飛び上がって喜んだ。
「可愛い子、大事な子、お前は私とラァナの宝物だ」
自分の命より大事なものが2つもある。その事にワンザは幸せを感じていた。

ワンザの住むこの南国の島は、いつでも太陽が降り注いでいる。
いつもなら幼な子の肌への負担を避け、常に日陰から出さないようにしている。
今日は昼間には珍しく薄曇りの天気だったので、海に慣れさせるために娘を船に乗せて沖へと向かっていたのだった。
「夕飯の魚を獲ってから帰ろうね」
まだ言葉の判らぬ娘にそう声をかけて、ワンザは網を投じた。
網はあえて、魚の密集していない所を狙った。
不漁が長く続いた時期は脱し、現在では以前と同じくらいの魚の数を認める事ができる。

ワンザは漁師だった。いや、この島に住む男はみな漁師だ。
ただし糧は魚だけではなかった。
フルーツも、イモ類も、堅果も、口に入れられる物は手を伸ばすだけでいくらでも容易に得られた。
村人は土地を耕す必要はなく、耕すという概念すらなかった。
したがって網の一投で狙う魚は、ひさぐ為でもなく、仲間の分でもなく、家族の腹が満ちる数だけで十分なのだ。
今頃はワンザにとってもうひとつの宝物である妻が、夕餉に備えて火起こしの支度をしているだろう。
いつもは娘を腕に抱えて、乳幼児でも食べられるようにとろとろに煮込んだ粥を指先にすくって娘口元へと運んでやっている。
カチュアはワンザのその指をちゅっちゅっと吸うのだった。時折、生えだした歯に痛みを感じるほど噛みつかれたが、それもいとおしかった。
そうしてお腹いっぱいになって満足した娘を見届けて、自分の食事を始めるのがワンザの日課だった。

水揚げした2匹のハタを網から外し、「さあ、帰るよ」と呟いて、オールを手に浜へ向かって岸へと漕ぎ出した。
砂浜に乗り上げた丸木舟の舳先から伸びる舫い綱をヤシの木に結んで、魚籠(びく)の中の魚と共に庵へと戻った。
空気が湿気を含んでいたので、火打石で石組みかまどの火口に配した焚き付けに火を熾すのには少し時間を要した。
獲ったハタは葉に包み、熾火の上の砂に埋めて蒸し焼きにした。
その蒸したハタと、残りもののナッツを少しだけの、簡素ないつもの食事だ。
魚が蒸し上がるまでの間、またいつもの白昼夢がやって来るだろうかと、ワンザは薄ぼんやりと考えていたが、この日は、それは現れなかった。

ワンザは少年の頃から同じ夢を繰り返し見た。
ワンザは漁師だった。でも夢の中のワンザは違った。
夢の中で出会う顔は、全て見知らぬ人々だった。これまでの人生で会った事のない、見知らぬ人たちだ。
自分自身も、今の自分とは全く違う誰かであり、夢の中の自分が見る物、出会う人、場所、全てが見知らぬ存在だった。
互いが交わす言葉も、ワンザの全く理解できぬ言葉ではあったが、夢の中の自分と彼らとは、その言葉で歓談しているのだった。
その見知らぬ世界での夢は頻繁になり、いつしか白昼夢としても現れるようになった。
少年のワンザは最初、自分は気が触れたのだと思った。
今は亡き父親に打ち明けると「それはおそらく、この人生の前の人生での世界を見ているのだろう」と教えてくれた。そしてそれは誰にでも視られる訳ではないのだとも。
その夢の中の世界は不思議に満ちていた。頑丈で雨風を防ぐのに長けた造りの建物があり、便利な道具が数多くあった。食糧の調達法も、人々の間での意思の決定法も、全てにおいて、この人生とは違った優れたやり方がなされていた。
人々は心の感応能力を持っており、言葉に出さずともお互いの考えが解り、ほとんどの者が未来を見通す力を持っていた。
特にその能力の優れた者の数名によって、何千年かの後に訪れる世界の終末の姿が捉えられ、人々は集う毎に、その回避手段について話し合い、夢の中のワンザもそれに加わっていた。
夢の中のワンザが属するグループのリーダーらしき人物は、常にワンザに語り掛けてきた。彼が何を述べているのか、内容は理解できず、彼の必死さだけが、目覚めたワンザの印象に残っていた。
いつしか、ワンザは夢の中の世界に重きを置くようになっていた。
そして、この現世での事象を軽んじ、村人の行いを蔑むようになった。夢の中の人々に比べると、この村人たちは何と幼いのだろうかと。
全てにおいて波長が合わなくなり、夫婦は生まれたばかりの娘を抱えて集落を離れた。
ワンザの両親も、ラァナの両親も、いづれも数年前の流行り病ですでに亡くなっていた。
ラァナの親族も友人も、彼女がワンザと共に集落を離れる決断に、強くは反対はしなかった。
彼女もまたワンザ同様、少し異色な人間として見られていたのだった。というより、村の中の変わり者同士、はぐれ者同士が引き合って夫婦になったのだった。
ワンザとラァナは島の中央にそびえる山の反対側の、風が強く当たり、船も着けづらく、魚も少ない入江へと居を移した。
2人共に後悔はなかった。むしろ村人の中で感じていた違和感は消え去り、夫婦だけのおだやかな日々が送れることを喜んだ。

砂を掘り起こし、葉からハタを取り出してその身を口に含みながら、対面にいるはずの妻と、膝の上の乗せているはずの娘の姿を想った。
“ずっと一人でいるから、自分は気が触れかけているのだろうか・・”ワンザはそう考えた。

ワンザの住むこの島では、これまでも稀に、気象の異常により、糧が不足する事があった。
それでも、海に網を投じれば数匹の魚はかかったし、大地の恵みも数を減らすものの完全に涸れる事はなく、しばらくのひもじさを凌げば、それらはまた元に戻るのだった。
その時期の乳幼児は栄養状態が悪く、体格が良くなく育ったが、それでも10歳になる頃には快復し、その痕跡が残らぬ程、健やかに成長した。
しかし一昨年は話が違った。魚は全く姿を消した。本当に全くだった。網にかかる魚はゼロになり、それが数ヵ月続いた。
異変は海だけにとどまらず、地の実りもやせ細り、それに連れて人々の体も痩せ細った。
母親たちの母乳も涸れ、ついに最初の幼子の餓死者が現れ、その後も生まれた子は次々に命を落とした。
「他の土地では、食べ物を巡って争いが起こる事もある」ワンザは幼い頃、父親からそう聞かされていた。
そして、村はそうなりかけていた。
争いの芽を摘むべく、村長(むらおさ)たちの間で、ある決定が下された。
妻と娘は連れていかれ、抵抗するワンザは殴られ気を失い、目覚めた時には全てが終わっていた。
なぜ、自分でなく妻と娘が人柱に選ばれたのか。
女の方が、人柱としてより災いを鎮める力があると、彼らはそう思っているのだろうか。
そんな稚拙な考えを持つ彼らと袂を別ち、精神の自由を手に入れたつもりでいた自分を呪った。
離れて暮らしていたからこそ、人柱として恰好だったのだ。自身の決断で妻と娘の命を散らしてしまった。

熾火もすでに消えかかっており、ワンザは魚の骨を傍らに放った。
今の自分の食事は、動物がエサを摂るのと変わりない。
いや、それより悪いのかもしれない。動物ですら母が子の為にエサを運んでいるのだから。
ワンザの体にはもう飢餓の影響は残っていない。しかし、心の飢餓はこの先も永遠に続くのだった。
命を絶つかどうか、やるならばどのようなやり方にするのか、それだけを考えながら日々を送っていた。
その度毎に、夢の中のあの男が現れ「使命を果たせ」と、その瞳が語り掛けてくる。
使命が何を意味するのか、理解できたとしてその言葉に従うのか、拒むのか、ワンザは自分の身の行く末に揺れていた。

その日は朝から胸騒ぎがしていた。
この海のどこかに、妻と娘が眠っている。せめてその微かな縁(よすが)を感じたいと、丸木舟で目的もなく船出し、しばし波間を揺蕩うのがワンザの常だった。
この日も、追想に浸るべく、庵から船の方へ歩んでいる時に声が聞こえた。
いや、声が聞こえたような気がした。
それはたまにワンザの耳元へ訪れる、空から聞こえる声であり、それはあのいつもの太古の記憶の中のリーダーなのか、それとも別の声の主なのか、それはワンザには判らなかった。
声はある方向へとワンザを導いた。そちらは普段は足を踏み入れぬ方向であり、生活には必要のない場への方向だった。
そして歩みを進めるにつれ、今度は逆の声が聞こえた。“そちらへ行くべきではない”と。
それは、自分自身の本能の告げる声であり、“何か厄介事がその先に待っている”という警告の声だった。
そして、それはどうやら当たっていたらしかった。
ワンザの鼻をひどい悪臭が突き刺した。
動物の遺骸の朽ちていく時の、何とも不快なあの腐敗臭だった。
ワンザはためらい、引き返す事を考えたが、その正体を確かめておく必要があると思い直した。臭いの正体が何であれ、放っておけば、自らに危害を及ぼす可能性もあるからだ。
獣が、他の獣を屠ったのだろうか?
小動物が単独で、死に至ったのならば、何も問題はない。
しかしそれが人間にも凶状を及ぼす獣によるものだとしたならば、何らかの対策を講じる必要がある。とはいえ、そんな大型の獣がこの島にいるとも思えなかった。
内なる声に抗い、更に歩みを進めると、微かなうめき声が耳に届いた。
それは精霊でもなく、あの男でもなく、ましてや自分自身の内なる声でもない、明らかに人間のうめき声だった

視界に映る葉陰の、その下から人の足が伸びているのが判った。
足しか見えなかったが、その人物は仰向けに横たわっている。明らかに男の足だ。
“眠っているのだろうか?”
ワンザは距離をとって、葉陰にしゃがんで身を隠し、その足をじっと見つめ続けた。
動き出す気配はない。胸に手を当てて、気を落ち着けた。
ゴツゴツとした造りの足、それは明らかに村人とは違っていた。
その者が眠りから覚めるのを待つべきか、それ以前に何らかの働きかけをするべきか。
ワンザは、身に危険が及ばないかと考えている自分に気付いて自嘲した。普段、死ぬ事ばかりを考えている自分が、まだ危険や死を警戒しているのだ。
意を決して近寄ると、男が弱っているのが判った。
危害を加えられるどころか、その者は自力で立ち上がる事もできないようだった。
先程からの悪臭は、彼の腕の傷の、その肉の一部が腐りかけた臭いだった。
男は見た事がない衣服を身に着けていた。
その間(はざま)からのぞく日に焼けていない男の肌は、これまでワンザが見た事がないほど白かった。
顔全体をヒゲが覆っており、その毛の色もワンザたちとは違っていた。
“白い色の人間だ・・”
ワンザの居るこの土地は周囲が全て海、つまり孤島だった。
そこに稀に十人程度が乗れる大きめの船が訪ねて来る事があった。言葉は通じたり、通じなかったりしたが、海の向こうの土地に、他の人間がいる事はワンザも知っていた。
彼らがワンザの部族にもたらした情報のひとつに『見上げる程の、山のように大きな船』が存在し、その船は白い色の人間たちが操っている、というものがあった。
この仰臥の男は、その船から落ちてここに流れ着いたのだと、ワンザはそう推察した。
「肌の白い者たちは、沢山殺す」そうとも聞いていた。
少年の頃、父親から、その昔に海向こうの土地の者たちが、『白い者』を忌み人として処分したという話も聞いている。

男から襲われる事はないと判じ、近くまで寄って男を見下ろした。
外傷は腕の傷だけで、それは致命傷ではなかったが、しかし憔悴がひどかった。
このまま滋養を与える事無く放っておけば、自然と骸となり、やがて蟹や虫が骨だけにしてくれるだろう。
その前にイタチやクスクスが、亡骸を部分ごとに運び去るかもしれない。

山向こうの村人は、まずこちら側に現われる事はない。彼らがこの男を見つけ、止めを刺す可能性はほぼないと思った。
忌み人と関わるべきではない。そう判断して、ワンザはそこから立ち去った。
浜に戻ると、そこにいくつかの木片を見つけた。明らかに人の手が加わったものだ。おそらくなら話に聞いた『とてつもなく大きな船』が砕けたその欠片なのだろう。
つまり、あの男は船から落ちたのではなく、乗っている船が沈み、ここに流れ着いたのだ。
この時になって初めて、ワンザは『とてつもなく大きな船』から仲間が男を探しに来るかもしれなかった、という可能性に気付き、同時にその可能性がもうなくなった事にも気付いた。
安堵の内にいつもの生活に戻ろうと、出漁の準備を始めた。
その最中(さなか)に、またしても、白日の下に『声』が聞こえた。
声は「あの男を助けろ」と、そう告げていた。
思い込みだとは判っていても、その声は妻からのものであるようにも感じられた。
声に促され、消炎作用のある野草の葉を摘み、それをつぶして練った物を携え、再び男の下へ向かった。
それを腕の傷に塗ってやった時、一度だけ男は目を薄く開き、ワンザの顔を見た。
男は、再度瞼を上げる力もなかったらしい、目を閉じたまま微かに何かの言葉を呟いた。
その言葉は微か過ぎて、男の訴えが何であるのか、ワンザには解らなかった。

幼い娘のカチュアを寝かしつけ、妻と語らい、その後に庵を2人の閨房へ変えようかとしていた時、山裾に灯るたいまつの炎の列が目に入った。
村人たちが山のこちら側に現われたのだ。
瞬時に“あの男の存在が知られたのだ”と判断し、男の下へ走った。
村人が麓まで降りてくるには、まだ時間がかかるはずだ。とはいえ、男をどこかに移動させ隠すだけの時間があるとも思えなかった。
“むしろここから動かぬまま、何も知らぬふりを決め込むべきなのでは?”とそう考えたが、すぐに翻した。
自分はあの男の腕に治療を施しているのだ。それに白い男の傍らに、何度かフルーツと木の実を置いて立ち去っている。
村人が男が自力ではそれらが取れない事を見て知ったなら、与えたが誰であるかも自ずと推察できるはずだ。 
忌み人と関わった事。それを報告しなかった事を追求され、咎めを受けるはずだ。
ワンザは妻と娘を連れ去りに来た時の彼らの険しい形相を思い出していた。きっと今も同じ顔をしているはずだ。
人の命を奪う為の、悪魔に魅入られたあの形相を。

男の下に到着した時、彼は目覚めていた。
ワンザの勢いにハッとした驚愕の表情を見せ、起き上がって身構えようとし、しかしそれが出来なかった。
初めて男を見つけた時から、3日が経過している。
傷は快復に向かい、男は立ち上がれはしなかったが、命を失う危機からは脱していた。
ワンザは、もし村人の一群が近くに寄って来たならば、男をもっと繁みの奥へ運び、そこで口を塞いで見つけられぬよう凌ぐつもりでいたが、たいまつの列は山のこちら側の裾まで降りて来る事はなく、山中を往来していた。
ワンザは男の瞳を見つめ、彼もまたワンザの瞳を見つめ返した。
ワンザは「あれを見ろ」と山を指さし、そこで男も山中に揺らめくたいまつの群れに気が付いた。
男はしばし起こっている状況の把握に努めているようで、ワンザに当然の疑問をぶつけてきた。
まず自分を指さし、そしてたいまつの群れを指さし、その差し指の往復を何度か繰り返した。
「村人たちにここに来てもらい、力添えを頼んではどうか」と、彼はそう訴えたいのだろう。
ワンザは首をゆっくりと横に振り、たいまつの一群を指さし、次にその指を男の胸元へ向けた。そしてその指で自分の首を横に切る動作を見せた。
ワンザは「村人はお前に危害を加える」と説明したつもりで、男は複雑な顔をしていたが、それでもそれを理解したようだった。
もし村人に発見されてしまったならば、男には抵抗の術はない。一団は容易に男の身を殺める事が出来るはずだ。
ワンザは自分の唇に人差し指をあて、男に言葉を発せぬようにという意味を伝え、男も理解しその指示に従った。

しばし静寂の時が過ぎた。注視していたたいまつの一群は山の樹々の葉陰に見えなくなってはまた現われを繰り返したが、山裾へ降りて来ることはなく、逆に山中へと登って行き、いつしか灯りは見えなくなった。
男からの納得のいかぬ視線を受けながらも、ワンザは安堵した。
考えてみると、男の存在が知られたのならば、船を使ってこちら側へ、そしておそらくなら昼間に廻ってくるはずだ。たいまつを付けて行軍したのでは、こちらにその動向を知られ、準備の時間を与える事になるので不合理だ。
ワンザは考えた。おそらく、山へと彷徨いこんだ家畜のヤギか、或いは子供を探しに、村人は夜間の捜索に繰り出したのだろう。
安全を確認すると、ワンザは男に一瞥もくれず、庵への帰途に就いた。
その暗闇の家路の途中で、ワンザは自分が男の命を案じていた訳ではなく、ただただ自分の保身を考えていたという事実に気が付いた。

この島の者は魚を獲る。ワンザもそうだ。稀に小動物も絞める。ワンザもそうだ。
だから恒常的に命を奪う感覚を味わっている。
しかしワンザは人間に刃を突き立てた経験はない。
きっとほとんど全ての村人も、人を殺める経験をしたのは妻と娘の時が初めてだったろう。

“男を助けたのは間違いだった”
ワンザはここ数日に渡って、食べ物を携え男の下に運んでいた。
しかし今握っているのは食べ物ではなく、ナイフだった。
先日のたいまつの一群を見て、ワンザの心に恐れが生まれていた。彼が集落の者に見つかったなら、忌み人として命を奪われるだろう。
そして自分と男が無関係であると主張しても、または「しばらく面倒をみているが、この男が禍をもたらす事はなかった」そう説明したとしても、それが通るとは思えなかった。
そもそも、本当にそうなのか。まだそれは顕れていないだけで、この『白く多くを殺す者』は、やはり災禍をもたらす存在なのではないだろうか。
或いは男が起ち上がれるようになり、動き回れるようになったなら、山向こうを目指すかもしれない。
男が捕らえられたなら、言葉は通じずとも、自分が男を介抱した事は村人に知られてしまうだろう。
この男を匿い続けるのかどうか、滋養を与え続けるべきなのかどうか。ワンザはこれまでもずっと迷っていた。
父親から聞いた「白い者を処分した」という話は真実なのだろうか。おそらくそうなのだろう。
そして村人たちも同じ事をするだろう。自分の妻と娘も殺める者たちなのだから。

男はいつものようにワンザが食べ物を持って来てきれたのだと思ったらしく、相好を崩してワンザを迎えたが、すぐに荒んだ気配を察知して顔色を変えた。
山向こうの集落の者たちが男を見つける前に、この男を葬り去る。ワンザはその決意を持って、ここに現われたのだった。
男はワンザの殺意にも、そして隠し持ったナイフにも気が付いていた。
彼は怯えた目はしていたが、抵抗する事はなかった。
白い男は目を閉じて、自らの首を差し出した。
おそらく「一思いに命を奪ってくれ」という意思を表しているのだろう。
白い男の予想外の行いにワンザは驚き、そして躊躇った。
ここまでの道のりにおいても迷いがあった。人の命を奪う事への憂虞と、それをするのが果たして正しい事であるのかについて。
そして今知った。
自身の保身や損得の為に人の命を奪う。自分は、自分が稚拙だと侮蔑していた村人たちと何も変わらないのだと。
慚愧の念に捕らわれ、男の顔も直視できず、踵を返してその場を離れた。
これまで自分は夢の中の、あの調和した世界の人々の一員だと思っていた。村人を侮り、自分は彼らより優れた存在なのだと。
かれらを見下す心から集落を退去し、島の反対側に庵を結んだ。その己の慢心が、妻と娘を死に追いやったのだ。

道すがら、もう白い男共々、村人から死を与えられる、いっそそうなっても構わないとワンザはそう考えた。
いやあの日からずっと死の事を考えていたではないか。妻と娘の下へ旅立つ事を希念していた自分ではなかったか。
ワンザが抱えていた大事な宝物は、2つとも奪われてしまったのだ。
おそらく、あの白い男も遭難した事だけでなく、自分と同じ様にこれまでの人生に疲れ切っているのだ。だから死を受け入れる心持ちになったのだろう。
庵に辿り着くまでの道中、いや、庵に収まってからも、ワンザの頬にはずっと涙が伝い続けた。

その晩、夢の中にあの太古の世界の男、ワンザのグループのリーダーが現れた。
「己が優れていると慢心し、見下してはならない」
「この人生、丸々ひとつを費やしてそれを学ぶのだ」
リーダーはそんなメッセージを太古の時代のワンザに告げ、ワンザは夢裡の中でそれを聞いていた。

出帆には見通しの利く満月の晩を選んだ。
その時間、出漁する者はいない。沖で村人の誰かの船に出くわす事はないだろう。
それに波間での一番の敵は日中の暑さだ。自分は海水に浸かればいいだろうが、腕の傷が癒えきっていない男は脚を浸すのがせいぜいだろう。
日除け用の布地も積み込んではいるが、果たしてどれだけの役目を果たすのかは定かではなかった。
丸木舟は安定の為のアウトリガーを両脇に付け足した。この島、この海域が嵐に見舞われるのは年に1~2度だけだ。航海の最中、それが起こらないのを祈るばかりだ。
同時に背は低いが帆も取り付けた。村に居た頃にしか帆のついた船に乗った事はなく、その確かな操り方も判らないが、それでも推力を得る為にそれが必要だった。
出航の直前に2人でフルーツを食べた。沖に出てからも、まずは日持ちのしないフルーツから最初に腹に入れるべきだろう。
それが尽きた後に、積めるだけ積んだ堅果と魚の干物に手をつけることになる。備えた針と糸で、洋上で魚が入手できる事を期待していた。
飲み水はスコールに求める事とし、その為に蓋の被せられる器も3つ用意した。
他の土地から海を渡り、また帰って行った者たちは、大きな船を用いていた。それに比べると、この丸木舟は何と頼りなさげだろう。
2人と積み込んだ荷物で、普段よりだいぶ沈み込んでいる。
別の土地、別の陸地まで、どれ位の距離を往かねばならないのかは皆目判らなかった。ただ少年の頃に父から聞いた「どうやら北西の方向に人の住む島があるらしい」という一言だけが指針だった。

この船の水夫2人は、数日前にお互いの名前を知った。
白い男は自らの胸元を指さし「アレハンドロ」と名乗った。
その後、時間をかけ、身振り手振りで「行く」「食べる」「あっち」「こっち」など、最低限のお互いの言葉を学んだ。
アレハンドロは普通に歩行できるまでに回復している。まだ十全に力仕事は出来ないが、彼は『見上げるほど大きな船』に乗っていたのだ。航海の助けになってくれるだろうとワンザは期待した。
ワンザが自らの意図を伝えるべく、「2人で」「海へ」「行く」と示した時、アレハンドロから尋ねられた。彼の言葉もジェスチャーも判らなかったが、その内容は容易に想像できた。
アレハンドロは「海の向こう」「当てがあるのか」と質問しているのだ。そしてそれに対しては首を横に振るしかなかった。
アレハンドロはあの晩と同じに「村人はどうか?」と尋ね、ワンザはあの晩と同じに「殺される」と示した。
白い男・アレハンドロは熟考の末に、ワンザの提案に同意した。

荷の中にはナイフも備えてある。当然、必要だ、ロープを切るにしろ、魚をさばくにしろ、何につけなくてはならないのだから。
このナイフで、洋上でどちらかがどちらかに突き立てることになるのかもしれない。ワンザは一瞬その可能性を考えた。いや、それはないだろう。彼はまだ体が十分には動かない。自分の助けが海の上での命綱なのだから。
自分の方はどうだろう。いよいよ飢えが極まったなら、糧食を独り占めする為に彼を殺すだろうか。だとするなら単身で出立し、彼は島に置いて来るべきだったろうか。いやアレハンドロは一人では生きてはいけないし、村人に見つかれば命はない。やはり新天地への旅路の相棒にするしかないのだ。
あの晩、アレハンドロは自分に命を差し出した。自分もアレハンドロとこの波と風に命を委ねよう。ワンザはそう決心していた。
新たな土地に辿り着けるのか。到達できたとして、そこに先住者が居るのか。居るとして2人が受け入れられるのか。
或いは、2人で大洋の上で飢え死ぬか、灼け死ぬのかもしれない。嵐に出くわして波間に沈むのかもしれない。
おそらく、この旅路の相棒も自分と同じ懸念を抱き、同じ覚悟をしているのだろう。ワンザはそう思った。

ワンザはあの日からずっと死を想い続けて生きていた。でもまだ生き永らえている。
追憶の泥濘(ぬかるみ)にまみれて、人生を過ごしていた。
「使命を果たせ」声がそう告げていた。
夢の中の予言では、世界は終末を迎えるという。ワンザには自分が育った島以外、世界が何かも判らない。終末が何かも判らない。おそらく生きている者全員が亡くなるという意味なのだろう。「使命」とは何なのだろう。それもまた判らなかった。
ワンザに判っているのは、この海に沈む妻と娘に会いに行くのは、まだ先だということだけだった。自分はこのアレハンドロと共に、まだしばらく『生』の中で、もがかねばならないのだ。
月明りの下、2人を乗せた丸木舟は、波間に緩やかに上下している。
ワンザもアレハンドロも、無言で遠ざかる島を見つめ続けた。
あの月灯りを浴びて青白く光る孤島。
ワンザは先刻まで自分の庵があったその島に思いを馳せた。
あの島で生まれ、成長し、妻をめとり、子を儲けた。そしてそれらを失ったあの島。
ワンザは幼い頃から、ずっと予感していた。いつかはこの島を出る時が来るのだと。そして今がそれを果たす時だった。『声』もこの決断に同意していた。
指先に妻の肌と、娘の歯の痛みを感じながら、ワンザは心の中で遠ざかる島にそっと別れを告げた。

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