ショートショート・僕の先輩

大学になっても体育の授業があるなんて知らなかった。

しかも異学年合同で、かつキャンパス外の運動場まで出向かないといけないなんて。
授業の後はそのまま現地解散で、都心方面に住まいがある他のメンバーと違い、地下鉄・東西線で浦安方面の車両に乗り込んだのは、僕と先輩の2人だけだった。

夕方のサラリーマンの退勤時間と重なって、車内はちょうど満席になる位だ。


授業は半分遊びのような野球の紅白戦で、野球部経験者がいる訳でもなく、本気度の低い、緩い感じだったので、僕がフライを取り損ねたことを咎める者はいなかった。


それでも、そのエラーが相手チームに1点を献上したのは確かなので、僕は少しばかりの責任を感じていた。


隣の座席に座っている先輩とは、先月のゼミの顔合わせで知り合った。

東京に出て来て、地元の田舎にはいないような色々な人に巡り合ったけれど、この先輩ほどユニークな人物は他にいないんじゃないだろうか。


遠慮介錯のない話しぶりの、飄々とした自由人で、いつもペースを乱されっぱなしだ。


「ところで、お前、疲れてるか?」

そんな先輩が急に問いかけてきた。


「それ程でもないですけど」

「そうか、ちょっと立ってみな」

「え、どうしてですか?」

「いいから、立ってみなって」

立ち上がった僕を、片手で追いやると、先輩はさっきの駅で乗車してきたお婆さんに声をかけた。


「ここ、どうぞ」

「え、でも・・」

お婆さんは当惑した顔で、僕と先輩の顔を交互に見た。

「いいんですよ、どうぞ」

にこやかにそう勧める先輩に付随して、僕もお婆さんに着席を促した。

「そうですか、すいませんねぇ」

そう言って、ちょこんと腰を下ろしたお婆さんは、立っていた時よりも更に小さく見えた。


僕は先輩の前のつり革に捕まり、意味をなさないだろうという反撃を繰り出した。

「普通、こういう時って自分が立ちあがるんじゃないですか?」

「あいにく、俺は元気じゃないんでな」

悪びれもせずそう言うと、僕の言葉に恐縮したお婆さんに「ああ、いいんです、こいつは立たせておけば」と、そう告げた。


「ホント、先輩がどうゆう人だか判りましたよ」

「情けに厚い、篤志家だって言うんだろ?、いや言わなくていいぞ、照れるからな」

何を言ってもやり込められてしまう。

でもそれが嫌いじゃなかった。


本当はさっき、乗車してきたお婆さんに席を譲りたいと思って、腰を浮かしかけたのだけど、気恥ずかしくて結局できなかった。

先輩はそれを察したのだった。


本当に疲れたのか、「着いたら起こしてくれ」と言って先輩は目を閉じた。

「今度、試合がある時はエラーしませんよ」

「ああ、今度はきっと捕れるよ」

先輩は目を開けず、こちらを見る事もなく、そう呟いた。

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