海難1890

いつも理性的な方が泣いた映画だそうです。

映画で泣くと聞くと身構えてしまうのですが、あらすじを聞いて、見たくなりました。

話を聞いてるだけで胸が熱くなったので、見たら泣いてしまうと思います。

涙には疲れる涙と、爽やかな涙がありますが、

爽やかな涙が流せそうだと期待大です。

絶対に感動する自分にとっての宝物になりそうな作品って、なぜか見るのに抵抗があります。

この現象の名前ってあるのでしょうか。

いくつになっても忘れられないキラキラした宝物のような時間と同じく、いつかは、この感動を忘れてしまうのではないか、その日々がなくなってしまうのではないかいう、漠然とした恐怖があります。

わたしにとっての宝物のような時間とは、子どもだけで入ったプールです。バスを乗り継いで市民プールで遊んだ時間、子どもはどの区間までいっても100円でバスに乗れたことや、友達とバスの中で怖い話をした思い出が鮮明に蘇ります。

また、旅行で訪れたホテルのプールでのこと、浮き輪で浮かぶわたしに、みんなの持っていた浮き輪を全て積み重ねて、1人の子がドーナッツと言ったことや、一番上の浮き輪に丸く切り取られた青い空が綺麗だったこと、幸せだなあと心が暖かくなったことを思い出します。夏は結構好きだなと思います。

おおい茂った木々の道を抜けると、景色が開ける頂上に到達する山登りや、人混みをかき分けてすすむと馴染みの顔とすれ違う夏祭り、計画をたてた旅行に出発する朝のいつもより澄んだ空気、その全てが儚くて、時間と共に、成長と共に、消えてゆき、形を変えゆき、今の私にはこの体以外、なに一つ残ってないからただただ悲しいという思いだけが残ります。

涙を流した後は誰かと笑いたいから、この切なさを共有したいと願うのかもしれません。

大切な思い出を作り上げた時間は過ぎ去ってしまうものだから、感動はいずれうすれてしまうものだから、人は成長してしまうものだから、永遠はないと知ってしまうから、子どもは大人になるから、ずっと若くはいられないから、その儚さに胸を打たれて、切なくて、誰かに話さずにはいられないのかもしれません。