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Waverライブを観終えたオタクによるMCに対する自分なりのアンサー


Waver無料オンラインライブが終わった。

 最高だった。家でひとり何度も号泣してしまった…。オンラインじゃないとできない演出やクオリティは、生の迫力や臨場感とはまた違ったアプローチで、でも変わらぬ熱量や想いが画面越しにもひしひしと届いた。

 ライブを細かく語るのは、もはや野暮だと思うレベルで良かったので、本当に是非ひとりでも多くの人に見て欲しい、アーカイブも今なら見れるから!ただただそれだけを伝えたい。

 なので今回はライブを観て動いた心の超超超個人的な揺らぎを、だらだら垂れ流していこうと思う。

 ライブを観ながら、俺は彼女と向き合ってるとき、まっすぐに自分が好きな自分でいれると、改めてそう強く感じた。これはナルシシズムとか、独りよがりな自己愛というよりも、もっと大切な感情な気がしたので、今回のアルバムを語る際に彼女もよく口にする、本当の自分を掘り下げながら考えていきたい。

 「わきゃ」とかいう意味わからんハンドルネーム、付き合いはもう10年くらいになる、ライブで知り合った人達と連絡を取り合うために始めたTwitterを登録するとき、慌てて何となく付けた名前だ。少し後悔してる。普段の生活では使わないし、恥ずかしい。

 でも彼女と向き合ってるとき、俺はわきゃになる。少し破天荒で、無駄に煩くて明るくてウザい、そしてなんか拗らせてる。俯瞰で見てみるとそんな奴だ(反論は随時受付中)。勿論元々の性格はあるけど、普段の自分よりも少し誇張されてる感じがする。でもこれが本当の自分か、偽りの仮面かと問われれば、胸を張って本当の自分ですと答える。それは、わきゃこそが本当の俺だ!って言ってる訳じゃなくて、仕事をする俺も、本を読んでるときの俺も、家族の前の俺も、嫌いな奴といるときの俺も全てが本当の自分自身だからだ。

 そして、わきゃとかいうオタクは半分が俺自身、もう半分は大きく田所さんと、これまで出会った沢山の愉快なオタク達の影響で構成されてる。そしてこの自分自身が作り出した、変なオタクのわきゃが日常生活の色んな失敗や挫折、抑うつ状態のとき自分自身を救ってくれた面があったんだと、今更ながら気付いた。本当に自分自身を救えるのは、理解できるのは誰でもない自分だけ、だけどその自分を作り上げていったのはきっと、自分が大切だと思った他人なんだろう。

 少し自分語りさせて欲しい(ずっと自分語りじゃん…)、昔から今も転校・転勤が多い環境にいて、友達をつくるのは苦じゃないが環境が変われば全然関わらなくなってしまう、そんなタイプだ。必要以上には他人に深入りしない、すぐ感情的になる癖にどこか諦めの様な気持ちが根っこにあるんだと思う。そんな俺は田所さんのファンになってひとりの人間と向き合うことを知り、本当に色んな感情を知った。それは一重に彼女の魅力、人間性だと思う。


 俺は田所さんの存在によって、わきゃとかいう自分自身が生み出した変なオタクの存在を愛することができた。

 今回、ラスト前のMCで「他人だけど、他人じゃない」って彼女が言ったときすごく刺さった。

 これは俺達が育てたみたいな取られ方をすると嫌なんだけど、きっとこれまでの年月で俺達はいつの間にか、田所あずさのある面における構成員になってるんだと思った。それはずっと追いかけてきたからとかじゃなくて、昔来てて今離れてる人も、色んなきっかけ、タイミングで好きになった人もみんな。

 口癖の様に、自分よりもファンの皆さんのためにと何度も言ってた彼女はいつの間にか、私についてきてくださいと言うようになり、今回自分自身と向き合う事がファンに対しても最も真摯な姿勢だ、共に生きましょうと変化していった。
 ネガティブだと嘆いていた彼女は、それを真正面から受け入れ表現として強みにするという難しい選択をした。変化していく、選択を続ける、特に今回は彼女にとって大きなきっかけの決断だったのは明白だ。

 俺らの存在がほんの少しでも、彼女自身が「変化し続ける田所あずさ」という存在を愛せる一部になれれば。そんな関係が理想だなと、近いような関係になれてるんじゃないかなと今思っている。

 昔からずっと、何よりも対等であることを意識してきた。俺は応援してあげてるわけではないし、だからと言って尊いと崇めてるわけでもない。どこまでも彼女をひとりの人間として尊重したい。誰よりも俺を知ってて、全然俺を知らない人、誰よりも遠くて、誰よりも近くにいてくれた人。

 彼女のMCで言った「切っても切れない複雑な関係」オタク視点アンサーverみたいになってしまった。本当にライブに触れてないし、大分クサくなってしまったが、まぁわきゃなので仕方ない。これが俺なのだ。

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