友達の定義

私は友達と呼べる人がいない。

そんな私は"友達"とはなんなのかを時々考える。
寂しい奴だということは分かっているが、この答えのない問題を考えて考えて、自分なりの回答を出すのが案外楽しかったりする。ふと考え直すと以前の答えと変わっている時があるからその都度ノートに書き出して自分の考えを深める。
考え、メモしたものを見返すのが最近の楽しみであり、この正誤の区別が曖昧になった情報が行き交う世の中で見つけ出した生きていく術である。

最初は今の友達の定義ではなく、以前の私の定義を話していこうと思う。

小学校の頃はいじめにあったり、悪口を言われている友達を見かけたりはしていたものの、なんだかんだ言って知り合った人はみんな友達だと思っていた。
今考えれば、悪口を言ったりいじめたりしてくる奴なんか友達でもなんでもないという事は考えずともわかる事だ。純粋無垢な幼い自分に、脳内お花畑すぎだろとツッコミたくなる。少人数校で全校生徒みんな知り合いだったのがお花畑の思考回路に関係しているのかもしれない。
だからといって別に私は少人数の学校で過ごしたことを不幸だとは全く思わない。人数が少ないと1人1人がしっかりフォーカスされ、ほぼ全員が様々な経験をさせて貰えるため、とても良い環境だったように思う。
その頃は友達がいないという話を聞く度に「友達がいないとか嘘だ!同じクラスの子がいるじゃん!」と思っていた私だったが、段々と人間関係の難しさに気づき始めてしまった。いじめられてもなおその難しさに気づかなかったのだから、その頃の私はきっと本当に何も考えていなかったんだろう。

最初に私は友達と呼べる人がいないと言ったが、
一応クラスでも話せる人はいるし、話しかけてくれる子もいる。でもそんな優しい方がいてくれる中で、私はどうしても自分が世界に一人ぼっちのように感じることが多々ある。

そんな今の私が考える友達の定義は、素が出せるかどうかだ。心を許せて、素を出しても良いと思えるかどうか。

私自身は、身長が高く目つきも悪く、元々愛想がいいほうでは無い私は、きっと初対面では怖い人だと思われてしまうだろう。実際に言われたことがあった。そして自分が悪だと思った事や理不尽な事に対してとことん憎悪の感情を向けてしまうため、なるべく他人に優しく笑顔で振る舞うことを心がけた。しかしきっと内面の冷たい部分が漏れてしまっているのだろう。そして人との間に無意識のうちに壁を作ってしまう癖が私を1人にさせているのだ。

悪を悪だと、理不尽を理不尽だと思い、嫌悪感をしっかりと抱ける自分の事が私は嫌いじゃない。そこの判断が出来なくなったら人は終わりだと私は思っている。だから友達を作るために、人が離れていかないようにその部分を変えようとは思わない。

だったら最初から素で接すればいいじゃないかと思うだろう。私もそう思う。
しかし私は素の出し方を忘れてしまった。先程言った理不尽や悪をとことん嫌う自分も、他人を助けずにいられない優しく穏やかでにこにこな自分も、もはやどれが自分の素なのか分からなくなってしまっている。もしかしたら裏も表もなく、全部なのかもしれないが。


きっと人によって友達の定義は違うだろう。それどころか明日の自分が考える友達の定義も今とはがらりと変わっているかもしれない。そう考えたらなんだか毎日がわくわくしてくるような気がする。さすがに言いすぎか。
機会があったら他の人が考える友達の定義もぜひ知りたいと思う。



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