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雑記(一三)

 一九三六年三月一日、二・二六事件に動員された兵らの原隊復帰を伝える報知新聞の紙上では、矢田挿雲の「忠臣蔵」が連載中だった。

 挿画は小村雪岱。駕籠の中から顔を出した男が、その駕籠を左の側面から取り囲んで腰をかがめている四人の男たちと、言葉を交わすような様子が描かれてある。駕籠の男はこちらに顔を向けていて、それに向き合う四人のうち、左の二人は横顔が見えているが、右の二人は背を向けていて顔は見えない。一番左の男の手には刀の柄が見えていて、鞘のまま刀を抱えているらしい。その男たちも、腰から下は画面の外に消えていて、つまり、かなり駕籠に接近した構図になっている。

 駕籠の中の男は、山鹿素行だろう。物語の中では「甚五左衛門」と呼ばれる。刊行した『聖教要録』の内容が公儀のとがめを受けて、江戸から赤穂へ送られることになり、その護送の途上、箱根を越えるところで、素行の門人を名乗る三人の男が一行の前にあらわれ、名残を惜しませてほしいと申し込んできたのが、この場面である。

 報知新聞の連載がもとになった『定本忠臣蔵』は全八巻の構成で、第一巻は「素行と赤穂の巻」の副題がついている。内容はさらに「(前)日本學の恩人」と「(後)士林に播く種子」の二部にわかれ、右にあげた場面は後者の「五、駕籠の内外」の章にあたる。

 巻の前編「日本學の恩人」は「一、士に下る淺野長直侯」から「九十九、音無き駕籠」まで、江戸に在していた山鹿素行に、浅野長直から赤穂へ下向するように命が下り、それに従った素行が赤穂で弟子を集めて学問を説き、ふたたび江戸に戻って父を看取り、やがてまた赤穂へ戻ってゆくまでを綴る。

 ここまで、忠臣蔵の事件の発端となる浅野長矩と大石内蔵助は、ほとんど姿を見せない。二人の登場まで、実に「四十三、辭意固し」の章までの長さを、読者は待たなければならないのである。しかもその時点では、「長友侯は、志州鳥羽城主内藤飛騨守忠種の女を迎へて夫人とし、後、二人の間に長矩、長廣の二子を儲けられた」、また「萬治二年は赤穂において大石良雄が生れた」とあり、二人ともその出生が告げられるに過ぎない。万治二年は一六五九年。いわゆる刃傷松の廊下は元禄十四年、一七〇一年、吉良邸討ち入りはその翌年の元禄十五年、一七〇二年である。それまでまだ、四十年ほどかかる勘定になる。

 矢田の「忠臣蔵」の第一巻は、素行を中心に君臣の睦まじい様子を述べながら、一方で、天皇の権力をおさえて幕府が実権を掌握している事態に批判の目を向け、朱子学を非難する素行の、思想的な闘争にも重点が置かれている。幕府の臣たる赤穂藩に仕えながら、学問上の立場を徹底すれば幕府との対決姿勢をとらねばならぬという、素行の内面の葛藤もある。討ち入りまで四十年という気の長さもあって、展開は地味だが、冒頭の場面を承応二年、一六五三年に設定し、その一昨年に乱を計画して自刃した由比正雪と素行の交友関係を示唆するなど、読ませる展開になっている。

 さて、三人が箱根の山道に現れたとき、駕籠の左右を護衛していた小山田、矢田の両名は警戒した。二人は、素行の身柄を奪いとろうとする者が現れるのではないかと、以前から思っていたのである。素行は、挨拶の機会を与えられたいと申し出た三人に、「村田に秋津に田中、ようこそ參つた。刀をそこへ置いてずつと駕籠のそばへ」と声をかける。三人は聞こえないそぶりで、帯刀したまま接近するが、「無腰でおいで」と素行に大声で念を押されて両刀をはずし、駕籠の近くに寄って来る。「駕籠の前に蝙蝠がつばさをひろげたやうな格好でへばりついて居た小山田は、全然敵意といふものが消え失せたから、とびしさつて駕籠脇を空け、師弟の對面に、武夫のなさけといふところを見せた」。

 さらにそこから、素行と門人たちの、うるわしい信頼関係が語られてゆく。素行は、みずからの著作が権力の側に危険視されながら、なお多くの信奉者を持つ存在として描かれてゆくのである。

 その素行の様子に、たとえば当時の北一輝をかさねることは、当時の読者にとっては、ありうることだったのではないか。三月一日の紙面を見て、そんなことを想像したくなる。

お気持ちをいただければ幸いです。いろいろ観て読んで書く糧にいたします。