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雑記(一九)

 森喜朗のいわゆる「神の国」発言があったのは、二〇〇〇年のこと。もう、二十年以上前である。

 こうした不適切な発言は、糾弾され、責任を追及されるべきものなのであろう。ただし、発言した本人がなぜそういうことを言おうと思ったのか、考えてみることも忘れてはなるまい。失言してみよう、と思っていたはずはなく、言えば理解され、評価されると期待していた、とまでは言えずとも、言っても構わないという判断か、言っても大丈夫という安心感を、そのときの本人は持っていたのであろう。ある一人の人物が、どのような感覚や論理に基づいてそれを言ったかということが、その発言にとっては最も重要な問題である。

 立花隆『天皇と東大Ⅲ 特攻と玉砕』(文春文庫)は、この時の森の発言について、こう書いている。「先年森喜朗首相の「日本は神の国」発言が物議をかもしたが、あの平泉史学が世を支配していた時代に基本的精神形成をすませてしまった世代の人(森喜朗は昭和十二年生まれ)で、「日本は神の国」発言が自然に口をついて出てしまう人が少くないのは、この時代、「日本は神の国」が国史の根本テーゼになっていたからだ」。

「この時代」とは戦前、戦中期のことで、「平泉史学」の「平泉」とは歴史学者の平泉澄のことである。平泉は非常に熱烈な皇国史観の信奉者で、東京帝国大学の教授でありながら私塾を運営し、また陸海軍の学校でも講義を行って、天皇を中心とする歴史観の浸透に努めた。立花によると、「建武の中興を実現させた楠木正成、北畠親房らの天皇への絶対忠誠心が六百年の時を経て幕末の志士たちの心の中で復活し、それが天皇親政の明治維新を実現させた」、「その精神を我々も受け継いで、昭和の御世の栄光を輝かせなければならないというのが、平泉の基本的歴史観」であった。

 立花は平泉の言動に関する逸話も収集したらしい。平泉は、戦国時代のことを研究したいという学生に、「百姓に歴史がありますか」、さらに「豚に歴史がありますか」と問い、また歴史上の人物には特定の敬称をつけることにして、吉田松陰や山崎闇斎は必ず「先生」を付け、しかし平田篤胤は「先生」は付けない、などと区別した。そして学生がこれを間違えると叱ったという。立花は、いくつもの書物から引用して、当時の平泉の周辺の異様な状況を描き出している。

 丸谷才一の小説『輝く日の宮』(講談社)では、主人公の杉安佐子の父・杉玄太郎が「和泉錠」という歴史学者の弟子だったことになっている。この和泉という人物は、明らかに平泉がモデルになっていて、右に見た挿話はいずれも、玄太郎が安佐子に語って聞かせる内容に入っている。小説によると、楠木正成は「大楠公」、北畠親房は「北畠親房卿」、新田義貞は呼び捨て、伊藤博文は「伊藤春畝公」、徳川慶喜は「徳川慶喜公」、西郷隆盛は「大西郷」、吉田松陰、山崎闇斎、藤田東湖、山鹿素行はやはり「先生をつける」、荻生徂徠は呼び捨てだったという。

 玄太郎の長男で安佐子の兄の春彦が「まるで番付。東西に横綱がゐて」と口をはさみ、「でも、むづかしいな。間違へたら叱られさうだもの」と言う通りで、西南戦争で政府と対立した西郷が、「大楠公」と肩を並べるごとく「大西郷」というのは、やや受けとりにくい。

 玄太郎はそれに対して、「叱られた話。聞いたな。ちよつと眉をひそめるのは見たことある。だからアンチヨコがあつた」と言う。「誰が作つたのかな。四ページか五ページのガリ版刷り。薄いやつ。それを借りて写した。最初に大楠公(楠公)、大西郷(西郷南洲先生)の二人が書いてあつて、その次に吉田松陰先生、谷秦山先生、橋本景岳先生、橘曙覧先生、本居宣長先生……重野安繹は博士だつたな。微妙な言ひまはし」。

 丸谷の『輝く日の宮』が出たのは二〇〇三年の六月。立花が「文藝春秋」の誌上で平泉の周辺のことを書いていたのも同じ二〇〇三年だが、丸谷はもちろん立花の記事が出る以前から平泉について知っていただろうし、戦後まもなく東大に入学しているから、実際に平泉について聞く機会もあったかもしれない。「アンチヨコ」が実在したかどうか、判然としないが、そういうものがあっても不思議でないという発想が丸谷にあったということは、たしかである。それなら、平泉の門下の誰かが工夫して、本当に一覧を作成したのだということにしておいても、よさそうに思う。

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