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雑記(三)

 三島由紀夫の小説「女方」は新潮文庫の『花ざかりの森・憂国』で読める。自選短編集である。私の手元の一冊には、奥付に「昭和四十三年九月十五日 発行」、「昭和四十七年八月三十日 十四刷」とある。

 目次をたどっておくと、「花ざかりの森」、「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」、「遠乗会」、「卵」、「詩を書く少年」、「海と夕焼」、「新聞紙」、「牡丹」、「橋づくし」、「女方」、「百万円煎餅」、「憂国」、「月」。このうちの「花ざかりの森」と「憂国」が表題になった。当然ながらそれには、この二作に対する、三島の格別の思い入れが影響していよう。

 三島は巻末の「解説」で、「詩を書く少年」、「海と夕焼」、「憂国」を「一見単なる物語の体裁の下に、私にとってもっとも切実な問題を秘めたもの」といい、逆に「橋づくし」、「女方」、「百万円煎餅」、「新聞紙」、「牡丹」、「月」は「嘱目の風景や事物が小説家の感興を刺戟し、一編の物語を組立たせたという以上のものではない」という。だがいま通読すると、私には「新聞紙」、「牡丹」、「橋づくし」、「女方」と続くあたりが、もっとも面白い。四編の流れは、すこし強めの酒に、すっと酔ってゆくような快さを感じさせる。特に「橋づくし」について、三島自身が「もっとも技巧的に上達し」ていると書いているのは、賛成である。

 芸者の小弓、かな子、新橋の料亭・米井の娘で大学生の満佐子、それから女中のみなの四人が、夜の銀座を、無言で歩いてゆく。心に願い事を秘めて、陰暦八月十五日の夜に、ひと晩で七つの橋を渡り、その間、誰とも口をきかなければ、望みがかなうというまじないを、四人で決行するのである。四十二の小弓は金が欲しい、二十二のかな子はいい旦那が客としてついてくれたらいい、と思っている。かな子と同い年の満佐子は、米井を訪れたことのある映画俳優のRと一緒になりたいと思っている。

 この夜の願い事は、他人に知られてはならないことになっているのだが、三人は互いに、誰が何を願っているのか、お見通しである。ただ、東北から出てきて、一月ほど前から米井にいる無口なみなの願いは、三人にはわからない。

 夜の町を歩きはじめた一行だが、腹痛に襲われたり、ばったり旧知の人物に出会ってしまったり、口を開けて物を言わなければならない局面に逢着して、次々に脱落者が出てゆく。その展開が、いかにも、手に汗を握らせるように書いてある。地図をひろげて、橋の名をひとつひとつたどってみても面白い。

 女たちの性格を説明しながら、このまじないの約束事も説明し、さらにその緻密な記述の背後に、何を考えているのか皆目わからない、みなという人物を不気味に配することで、いわゆる、気心の知れた関係、というものの幸福と、その裏返しとしての残酷さを浮かび上がらせて、人と人の情の不思議さを見せてくれる。それは、私が、今となりにいる誰かの心底をどのくらい見すかすことができているのか、ということ、また、その気になって、いかに傲った念々を持っているかということ、そしてその危うさに気づけずに安座していられることの不思議さであって、決して小さな問題ではないと思う。

 しかし三島自身は「橋づくし」も、すでに見たように、「嘱目の風景や事物が小説家の感興を刺戟し、一編の物語を組立たせたという以上のものではない」と言う。三島のこのような作品をどう評価するのかという問題は、結局は水掛け論になるのだろうが、それは、言わば、熾烈な水掛け論になるのだろうと思う。

お気持ちをいただければ幸いです。いろいろ観て読んで書く糧にいたします。