雑記(二六)
JR渋谷駅を降りて、センター街を代々木の方向へ歩いてゆく。NHK放送センターのすぐ手前の角を右に折れて少し坂をのぼると、二・二六事件の慰霊碑がある。事件を主導した将校らが処刑されたのは、今は放送センターが立つ位置にあった刑務所の敷地内であったという。
一九三六年七月十二日には、将校十三名、民間人二名が処刑されている。民間人二名とは、渋川善助と水上源一である。銃殺刑であった。
刑の執行に先立って、さまざまな遺書が書かれた。軍法会議の最後に言葉を述べることも許された。それらを経て、では、刑の執行の直前には、誰が何を言ったのか。それは、当時から注目を集めた事柄であったらしい。保阪正康『秩父宮と昭和天皇』(文藝春秋)にはこうある。「処刑場の刑架前での最後の言葉は、全員が、「天皇陛下万歳」だった。しかし、安藤だけは、「秩父宮殿下万歳」と叫んだという。これは、代々木陸軍衛戍刑務所長だった塚本定吉の手記(「軍獄秘録」『日本週報』昭和三十三年二月二十五日号)によって広まり、いまは定着してしまった感がある」。
安藤輝三は、秩父宮と個人的な交際があった。だから安藤だけが秩父宮の名前を叫んだというのは、自然なこととも考えられる。このときまで同じ刑務所にいて、翌年に処刑されることになる磯部浅一も、手記で同様のことを書き残している(河野司編『二・二六事件ー獄中手記・遺書』河出書房新社)。
しかし保阪が、森田利八という人物に取材すると、異なる証言が得られたという。保阪によると、森田は陸軍士官学校の予科を終えたあとで秩父宮の所属する中隊に配属され、そこで秩父宮と親しくなった。大正十一年というから、一九二二年のことである。安藤が秩父宮と出会うのが、その二年後の一九二四年。その森田は、安藤が「秩父宮万歳」を叫んだという説に対して、保阪に何を語ったのか。
「ところが、森田利八は、安藤は決してそのような言葉を吐いていないはず、という。最期に「秩父宮万歳」と叫ぶことによって、秩父宮が後世の人びとにどういうふうに理解されていくか、歴史的な誤解を残すことになると判断のできる男だったというのだ」。言われてみれば、秩父宮と個人的な関係があればそれだけ、その名を口にするのが遠慮されるということは、考えられる。多数の要人を殺害した者たちが秩父宮の名を称えて死んだとなれば、多少とも秩父宮に迷惑がおよぶであろう。それに、たとえ安藤が秩父宮の助力を期待し、秩父宮の行動を期待していたとしても、自身が刑死する場面で秩父宮の名を口にすれば、かえって希望の実現が遠のくということも、安藤は考えられたのではないかと思う。
さらに保阪は、「秩父宮の同期生(陸士三十四期生)を取材している折りに、処刑を担当した佐倉連隊の元少佐に出会った」という。「処刑前日、彼は上官からこの処刑の指揮を命じられた。射手は尉官たちである。この元少佐がなんど目かの取材で、重い口を開いた。「死ぬまで語るつもりはない」と決めていたというのである」。
そして、元少佐は言う。「たしかに十五人は、全員が、『天皇陛下万歳』と叫んで射たれていった。しかし、ただひとり『秩父宮万歳』とつけ加えた者もいた。それは安藤ではない。……歩一の栗原安秀だった」。
この元少佐の証言では、安藤も「天皇陛下万歳」は言ったことになる。そのうえで、栗原だけは、秩父宮の名を口にしたというのである。それにしても、安藤と栗原では、同じ秩父宮の名を口にするのでも、その意味は大きく変わってくる。まことに言葉は、誰がいつ発したかによって、容易に意味を変える。そうした条件にとらわれない、いわゆる辞書的な語句の意味など、言葉の作用のほんの一面を照らすものにすぎない。