雑記(四四)
十一月八日の日本教育新聞が興味深い調査結果を報じていた。通信アプリLINEによる調査で、「高校生に将来なりたい職業を尋ねたところ、男子は「教師・教員・大学教授」が最も多く、女子も同項目が2位に入った」という。
男子は昨年度の3位から順位を二つ上げ、女子は昨年と同順位。学校教員の過大な労働時間の問題が言われ、少子化に伴ってひとりひとりの教員の責任が重くなることも予想されうるなか、やや不思議な結果ではなかろうか。
学校の教員になれば、場合によっては、親子ほどの年の差の子どもたちに語りかけなければならないことになる。年代が違えば、どんな言葉を読み、聞いてきたか、どんな経験をしてきたかに、当然、差が出る。言葉が伝わらないのはむしろ当たり前で、何度も同じことを言って聞かせ、確認をとるのが教員の仕事だということになってくる。
夏目漱石の『坊っちやん』の主人公は、四国で中学教師の職に就く。散歩の途中で蕎麦屋を見つけて、天ぷら蕎麦を四杯たいらげると、翌日の教場の黒板に「天麩羅先生」と書かれていた。蕎麦屋の様子を目撃されていて、からかわれたのである。「おれの顔を見てみんなわあと笑った」。次の時間の授業に行くと、今度は「一つ天麩羅四杯也。但し笑ふべ可らず」と書かれている。
「おれはだまつて、天麩羅を消して、こんないたづらが面白いか、卑怯な冗談だ。君等は卑怯と云ふ意味を知つてるか、と云つたら、自分がした事を笑はれて怒るのが卑怯ぢやらうがな、もしと答へた奴がある。やな奴だ。わざ/\東京から、こんな奴を教へに来たのかと思つたら情なくなつた。余計な減らず口を利かないで勉強しろと云つて、授業を始めて仕舞つた」。
生徒の態度への怒りと失望があらわである。特に悲痛なのは、このあたり。「わざ/\東京から、こんな奴を教へに来たのかと思つたら情なくなつた」。
次の時間には「天麩羅を食ふと減らず口が利き度なるものなり」と書かれ、「どうも始末に終へない。あんまり腹が立つたから、そんな生意気な奴は教へないと云つてすたすた帰つて来てやつた」。今度ばかりは一矢報いたと言えそうだが、このときの生徒たちは、先ほどとは違う学級であろうから、「天麩羅先生」だの「一つ天麩羅四杯也。ただし笑うべからず」だのと書いて笑った面々にとっては、坊っちゃんの抵抗は痛くもかゆくもない。
遊郭の入り口の団子屋で団子を食えば、「団子二皿七銭」、「遊郭の団子旨い/\」と書かれる。人のいない隙を見はからって温泉の湯で泳いでいたら、あるとき「湯の中で泳ぐべからず」という貼り紙が出た。出講すると、黒板にも「湯の中で泳ぐべからず」と書かれている。「何だか生徒全体がおれ一人を探偵して居る様に思はれた。くさ/\した。生徒が何を云つたつて、やらうと思つた事をやめる様なおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえる様な所へ来たのかと思ふと情なくなつた」。
坊っちゃんさえ「情なくなつた」と思うのである。教員になりたい高校生たちは、このあたりをどう読んだのだろう。当然、そういうこともあるだろう、と思っているのか。
お気持ちをいただければ幸いです。いろいろ観て読んで書く糧にいたします。