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雑記(二九)

 誰からも好まれる人物というのは、いるだろうか。好人物はたしかに存在する。しかし、まったく誰からも憎まれず、非難されずにいる人物というのは、なかなか、見つけるのが難しい。

 芦澤紀之『秩父宮と二・二六』(原書房)によると、安藤輝三という人物は、それにあてはまる好漢であったらしい。安藤は陸軍大尉で、一九三六年の二・二六事件では、中心人物のひとりとして侍従長の鈴木貫太郎の邸宅を襲撃し、その後は料亭「幸楽」などに拠った。事件計画への参加には最後まで慎重だったが、二月二十六日の行動開始以降は、最後まで強硬に抵抗を続けたという。それも、安藤を中心とする部隊の結束の強さのゆえに可能となったと見る論者は多い。同じ年の七月に死刑に処せられた。享年三十一歳。
同書の著者である芦澤は、「秩父宮を偲ぶ会」の事務局長として七年間、秩父宮の伝記の編纂にあたった経験を持つという。秩父宮は昭和天皇の実弟で、二・二六事件当時は弘前で連隊長を務めていた。秩父宮と安藤は、見習士官と士官候補生という立場で、ともに第一師団歩兵第三連隊に属していた時期があり、個人的にも懇意であった。

 芦澤は二・二六事件関係のことだけでも一年以上の時間をかけて調査したが、伝記を刊行すると、「特に旧陸軍の一部の人々から、安藤輝三を美化し過ぎた、という批判を受けた」という。「もとより、全編にわたって痛烈な非難も批判も覚悟のうえであったが、安藤輝三美化の件だけは困った。なぜかというと、安藤の件について取材調査をしても、二・二六事件そのものを除くと、あとは軍人としてよりも、人間としてヒューマンな話ばかりで、実は弱ったことを経験している。安藤の陸士同期生も、歩三の元将兵も、こと安藤に関しては、どうしても批判的な話が出てこなかったのである。それどころか、逆に刊行後、さらに安藤の人間的魅力を伝える書簡や電話が自宅にきて、かえって恐縮したものであった」。

 茫然とするような挿話である。そういう人物が二・二六事件の計画実行に重きをなしていたということは、その志の価値を示すように見えなくもない。しかし、その人柄が事件の犠牲になったと見ることもできる。芦澤は結論する。「安藤輝三とは、そういう男だったのである」。まだ中尉であったころ、除隊した兵が生活に苦しんでいると聞くと、「その本人を訪ね歩いて捜し出し、少ない給料の一部をさいて、厚生の資金とし、就職先を紹介して見事に立直らせた、というエピソードもあるくらいである」という。

 その安藤が処刑されるときに「秩父宮殿下万歳」を叫んだのか、それとも「天皇陛下万歳」を叫んだのか。それが謎であることは、前回までに触れた。『秩父宮と二・二六』は、しかし、そのことに一言も触れていない。「昭和十一年七月十二日、安藤輝三らは処刑され、西田税も翌年の八月十九日に、北一輝とともに青年将校のあとを追った」と簡潔に事実を伝えたあと、こうある。「秩父宮は彼らの処刑報告を受けられても、特別に発言されたという様子はない。だが、安藤や西田に対して、かつての感情を捨てきれなかったのは事実である。だがこれを書けば、また誤解の源となる恐れがあるのでやめにするが、秩父宮の人間像は、歴史的視野から離れても、実に奥深さを持つ魅力のあるものであったことだけは、つけ加えておこう」。

 秩父宮と処刑された青年将校らの関係について、口をつぐむような書きぶりであることは間違いない。

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