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雑記(八)

 二・二六事件の首謀者たちは、二月二十六日からの四日間を、連絡や調整のための奔走に過ごさなければならなかった。決して一つの場所にとどまっていたわけではない。

 磯部浅一の行動も、めまぐるしい。手記によると、磯部は二十六日の午前五時ころに丹生誠忠の部隊、村中孝次、香田清貞と陸相官邸に到着したのち、午後には、山下奉文のあとを追って、自動車で宮中に入ろうと試みてもいる。「山下は「官邸にて待て、俺が参議官を同行する」と云ひたるも、余はどんな事があるかもしれんから、兎に角宮中に行かうと主張して少将の車を追ふ。日比谷、大手町あたり市中の雑踏は物すごい。御成門に到り少将は参入を許されたるも、満井、真奈木中佐、余等共に許されぬ。止むなく官邸に帰り参議官の到来を待つ」(河野司『二・二六事件ー獄中手記・遺書』)。「御成門」とあるのは誤りらしく、同書には小さな字で「坂下門」と添え書きがある。「満井、真奈木」は満井佐吉、真奈木敬信のこと。

 翌二十七日早くに、磯部は田中勝とともに首相官邸に移ったが、午後二時ころ、真崎甚三郎ら軍事参議官と会見することになり、ふたたび陸相官邸に赴いた。夜は農林官邸で休息している。二十八日朝は車で戒厳司令部に向かったが、戒厳司令官の香椎浩平には会えず、石原莞爾、満井佐吉に涙ながらに撤退を懇請され、また陸相官邸に戻っている。同日午後、一転して決戦の方針が決まると、陸相官邸から閑院宮邸付近に急行した。

 二十九日早朝、奉勅命令が下ったと聞いて、首相官邸に栗原安秀を訪ね、劣勢を感じつつも文相官邸に向かい、その後、ドイツ大使館前、山王ホテルと移動し、陸相官邸に戻ったところで、村中、香田とともに一室に監禁され、捕縛された。そこで磯部は、「連日連夜の疲労がドット押し寄せて性気を失ひて眠る。夕景迫る頃、憲兵大尉岡村通弘(同期生)の指揮にて、数名の下士官が捕繩をかける。刑務所に送られる途中、青山のあたりで昭和十一年二月二十九日の日はトップリと暮れてしまふ」。最後はやや感傷的な記述になっている。

 この間、磯部は関係者らと絶えず会談し、二十六日には陸相官邸にやって来た片倉衷に向けて発砲するような事態もあった。二十六日朝の様子を書きながら、こう注記している。「時間の関係が全然不明。二十五日夜より二十九日夕迄、食事をとること僅かに三度だ。呑気に食事なぞする余裕がない程に、事態が変転急転するので、時計を見るひま、その時間を記憶する余裕などとてもない。左様な次第ですから事実の前後関係については、多少の相違があるかもしれん」。

 手記をたどっても、食事に関する記述はほとんどない。わずかに二十八日のところに、「夕刻来、台上一帯の住民は立退きを始める。赤坂見附、半蔵門、警視庁等各方面戦車の轟音頻り、交通、通信(電話)を断たれ、外部との連絡不可能となる。兵士の給養をせねばならぬのだが、如何ともする術がない。止むを得ず自動車でパン、菓子等を徴発し、清酒一樽を求めてうえをしのぐ程度の処置とする」とある。磯部も、そのくらいは口にしただろう。冷えたパン、菓子、酒の味を想像する。

 磯部がろくに食事もとらずに行動を続けたのは、たしかに「余裕」のない状況のためであっただろう。ただ同時に、そういう状況へ身を投じることをみずからに許した磯部の意志も見のがせない。磯部の手記は、事件の経緯と各時点の自身の感想を詳細に伝えながら、この四日間、磯部はほとんど寒さも空腹も感じていないかのように読めてしまう。異常な興奮状態のなかで、つとめて冷静に事態を把握しようとしていた姿勢が見えてくるのである。そしてその根底には、不思議なほどの明るさがある。

 磯部は二十八日朝に「情況は一夜の内に逆転して維新軍に不利になつていることを考へた」というが、すくなくとも捕縛される二十九日までは、自分が死ぬことによって何かをなそうというような発想を受けいれることはできなかった。あくまでも生きて抵抗し、自称するところの「義軍」を有利な位置に置こうとしたのである。その働きは、時に自決の方向へ傾こうともする一同のなかにあって、特異な明朗さを持っているように思える。

 その対照が特に明らかになったのが、二十八日午後の陸相官邸における会談の場面だと思う。栗原や村中が自決を口にするのに対して、磯部はこれに異を唱えた。松本清張も「村中はその場の雰囲気に動かされて、わけもなく「自決しよう」という。これに対して磯部は状況を鋭く観察して、論理的である」と評している(「奉勅命令」『昭和史発掘』)。このときのことを、もうすこし詳しく見ておきたい。

お気持ちをいただければ幸いです。いろいろ観て読んで書く糧にいたします。