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雑記(二八)

 二・二六事件で侍従長・鈴木貫太郎を襲撃した安藤輝三は、銃殺刑に処される際に、「秩父宮殿下万歳」と叫んだのか、それとも「天皇陛下万歳」と叫んだのか。秩父宮は天皇の実弟である。二・二六事件の経緯にはさまざまな謎があるが、これも解きがたい問題として残されている。

 説は二つに分かれる。事件に関わって処刑された面々のなかで、特に安藤は秩父宮と個人的な交際があった。だから、他の者たちが「天皇陛下万歳」を叫ぶなかで、ひとり「秩父宮殿下万歳」を叫んだという説。これは、ひろく流布している。しかし一方で、秩父宮と個人的な関係があったからこそ、反乱軍とされた自分たちとの関係を疑われては秩父宮に迷惑がおよぶと考えて、安藤が「秩父宮殿下万歳」などと言うはずがない、という説もある。

 刑務所長であった塚本定吉の手記は前者の説を示し、安藤の同志で翌年に処刑された磯部浅一の手記も、これを支持するように見える。しかし保阪正康『秩父宮と昭和天皇』(文藝春秋)が紹介する、当時の処刑を担当した元少佐の証言は、後者を示している。塚本定吉、磯部浅一、名前はわからない元少佐。三人とも、当時の処刑の現場にきわめて近い位置にいた人物である。そこで証言がわかれているというのは、不思議である。

 保阪によると、元少佐は、「秩父宮殿下万歳」を叫んだのは、栗原安秀だという。栗原は、五人ずつ処刑されるその組が、安藤と一緒であった。「私の耳には、栗原が秩父宮殿下万歳と叫んだ声がいまも残っている。聞きちがえることはない。ほかの者が聞きちがえて伝わっていったのではないか」と、保阪に語ったそうである。塚本が聞き間違え、それを伝え聞いた磯部も誤った認識を持ったということなのだろうか。

 またこの元少佐は、処刑の場に「特殊な空気がただよっていた」とも言う。それがどのようなものなのか、具体的には明かされなかったそうだが、保阪はひとつの推定を示している。「この少佐のいう「特殊な空気」というのは、射手たちの動揺をさしているようで、たぶん射手たちも自らの弾丸が決起将校を射つことに脅えていたということだろう。佐倉連隊もまた第一師団傘下の連隊だった」。同じ師団に属する者たちをその手で殺さなければならないというのは、苛酷な任務であったに違いない。松本清張『昭和史発掘』(文春文庫)も、ここでの再会について書いていた。

 この元少佐の証言を決定打として、安藤は「秩父宮殿下万歳」を叫んでなどいない、と断定する気にもなれないのは、この「特殊な空気」のためでもある。そのせいで聞き間違えたとも、逆に、「特殊な空気」による緊張感が確実な記憶を残したとも、言えそうだからである。

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