『ゾンからのメッセージ』の不可知論

夢のような映画を観た。草に覆われた小さな土手を、ひとりの女性が横切ってゆく。その画面の上方にひろがっているはずの青空の部分には、あきらかに空の色ではない、赤や黄の色彩がせわしなく明滅している。この地域は、「ゾン」と呼ばれる謎の現象によって外部から遮断され、その状態がもう二十年も続いている。不思議な空の色は、この「ゾン」によるものであるらしい。『ゾンからのメッセージ』の幕開けは、あまりにも不思議だ。

ここに暮らす人々の服装や髪型に特段の異状はないように見えるが、その常識は、いくらか今時の観客とは異なっているようだ。偶然にハンディカムを手に入れた少年の一歩(高橋隆大)はその使用方法がよくわかっていないらしいし、「ゾン」の向こう側から投げこまれてくる黒い物体がVHSのカセットテープというものであることも知らない。一歩と友人の麗実(長尾理世)という少女が行きつけにしているバーはやや年かさらしい晶(飯野舞耶)と道子(律子)という二人の女性が切り盛りしているのだが、この二人はVHSの再生方法を知っている。作中の現在は、劇場公開された2018年よりもいくらか未来に設定されているのだろう。また、「ゾン」出現以前にこの地域から外に出たことのある晶は海を見たことがあるが、そこから出たことのない道子は海を知らない、という経験の差もある。麗実が晶に海について訊ねているということは、海についての映像や情報を手に入れるすべも、ここの人々には用意されていないということらしい。

映画の主題のひとつは、人間が何かを知るということ、あるいは何かを知らずにいるということの意味を問いなおすことにあるだろう。海を見たことのある晶はたびたびその様子について質問されるが、そのたびに、どうせ行けないのだから、などということを口にして丁寧な応答と説明を避けようとする。その晶の態度とは反対に、必死に海の大きさを伝えようとする姿勢は、道子が口にする寺山修司の短歌一首「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」(『空には本』)のなかにしか、ない。晶の言うように、実地に経験したり実践したりできないことは、われわれは知らなくてもよいことなのだろうか。おそらく私は、そうではない、ということを前提にして生きてきた。宇宙の誕生を、深海生物の生態を、歴史上の人物たちの偉業を、私が実際に目にすることはないだろうが、それでも私はそれについて何らかの情報を得ようとする。眼前にまざまざと再現されることなしには、単なる言葉や数値の羅列にすぎないはずの情報を、私はどうして手に入れようとしてきたのか。

ハンディカムを構える一歩に、晶はその機械によってどうして撮影が可能になるのか、その仕組みについて問いかける。一歩はたどたどしく説明を試みはじめるが、やがて言葉に詰まってしまう。仕組みがわかっていなくても、使えるのならいいじゃない、と取りなすように言う晶は、そういうものでしょう、この町で生きていくってことそのものが、と付けくわえる。この発言に思わず慄然とするのは、ことが「ゾン」だけにとどまらないからだ。なぜテレビは瞬時に情報を伝え、インターネットは情報を運び、自動車は人や物を動かし、電灯は手元を照らし、冷暖房は室温を変えるのか、私は何も知らずにその効能を享受している。詳しい経緯を知らずに安穏としているということそのものが、現代の生活のひとつの側面だったのだ。そしてその事態からの逆襲の最たるものとして、たとえば福島の原発事故のことを、想起せずにはいられない。考えないために、考え抜いてるね、と口を挟む青年・二宮(唐鎌将仁)の言葉にも重みがある。言わば、保身のためにふりしぼられた思考というものがたしかにある。論理をつきつめたふりをして、その上に腰をかけて、つかのまのつもりで心の安穏を得るのである。そしてそのつかのまは、状況が破綻するまで終わらない。

さて、「ゾン」に覆われた地域は、どのようなものだろうか。廃屋のような場所にひとりで寝食をくり返している永礼(石丸将吾)は、明滅する「ゾン」の様子を見つめ続けている。人々を集めて「ゾン」との交感を目指す怪しげなセミナーを開いている二宮とはかつての同級生で、「ゾン」の向こう側に姿を消してしまったもうひとりの男と三名でバンドを組んでいたという過去がある。彼らの関係はこの廃屋のような場所を「秘密基地」と称して共有し、捨てられた成人雑誌を悪の象徴と見なして収集していた幼時から続いている。ひとたび「ゾン」の向こう側へ去ってからこちら側へ戻って来た者はいない、ということもあり、永礼の家は周囲に危険視されているのだが、ハンディカム片手に進入した一歩は、永礼が取り出した過去の成人雑誌の頁を繰り、しげしげと眺める。この場面を傍証のひとつとして、「ゾン」の内部では異性愛が禁忌とされているらしいという仮説が提起できるようにも思われる。

「ゾン」の向こう側から出現した貝殻を、永礼は自分の股間にあてがっておどけて見せるが、一歩にはその意味がよくわからない。バーのカウンターでVHSを手にしている一歩を相手に、客のひとりはブルーフィルムについて言及しようとして口ごもる。特に一歩や麗実に対して、性愛に関することは努めて秘匿されているように思われるのだ。さらに言えば、中心的な登場人物のなかに、異性愛のカップルは全く存在しない。ひとつ屋根の下に暮らし布団を並べて横になるのは晶と道子だし、ひとり廃屋に暮らす永礼にも、バーの窓辺で酒を飲んでいる二宮にも女性の影は感じられない。一歩が地域の人々にカメラを向けてインタビューする対象のなかには老夫婦らしき二人もいるのだが、そこで麗実との関係をからかわれた一歩は、性急に交際関係を否定する。「ゾン」の出現以前に成立していた夫婦関係はともかく、「ゾン」が出現してからは異性愛が忌避され、禁忌として扱われるようになったらしい。「ゾン」の外部に出られないということが将来への希望を閉ざし、その結果として出産への意欲が減退した、という論理をあとづけてもよいかもしれない。ただ、その異性愛の不在のゆえに、晶と道子のバーに麗実が泊まることになり、三人が同衾する夜の場面は特別な質感を持っている。そして「ゾン」の内部から脱出したのちに、線路沿いの道で抱擁をかわす一歩と麗実の不器用な腕の動きは、二人の関係がまったく新しい局面に入ったことを感じさせていとおしい。やがて二人は電車を知り、海を知り、異性愛の相手として向き合うことを体得してゆくだろう。

ただこうした推論をむなしくさせてしまうまでの圧倒的な不思議さが、この映画に満ちていることも確かである。一歩と麗実の撮影するハンディカムの映像に、どうして本作の撮影クルーとおぼしき人々が映りこむのか、そしてそのカットがなぜ採用されているのか。バーの椅子に腰かけた二宮に一歩が話しかける場面のあとで、どうして俳優たちに演出の指示が与えられている光景が流れ、別のテイクまでが披露されるのか。シネカリと呼ばれる手法でフィルムに傷をつけて「ゾン」の内部から見える空の映像の色彩を加工している作業を行っている様子が、どうして挿入されるのか。無秩序にさえ見える映像の集積は、合理的な解釈を拒絶しようとする。

そこで私はただ、仕組みがわかっていなくても、使えるのならいいじゃない、という晶の声を思い出す。意味がわかっていなくても、楽しめるのならいいじゃない、ということなのか。この考えの安易さをうすうす察知しながら、私はやはり、考えないために考え抜こうとしているのである。映画を観てあれこれ思いをめぐらすということさえも相対化しようとする、野心にみちた構成と言うべきだろうか。

複雑さや難解さを抱えつつ、それでもこの117分という上映時間の長さを感じさせないのは、何をおいてもやはり「ゾン」の空の美しさのゆえだと思う。「視覚(興奮)と弛緩(知覚の中断)との反復運動によってこそ、人間(生物)の生命活動は成り立っている」とし、「映写機のあの断続的なカシャカシャという間歇的なリズム」が「生命活動と同型の間歇的なリズム」であることが、映画の快楽の根源にあると考えた長谷正人の指摘も、ここで思い出しておきたい(『映像という神秘と快楽』)。そしてこの空を覆う色彩の明滅、みるみるその様相を変化させてゆく映像の転変は、おそらく、映画を観ることの根本的な快感や意義につながっている。つまり、絵画や漫画とは違って、眼前に提示される色や形が刻々と変化してゆくこと、こちらは身じろぎひとつせずともそれを見とどけることができるということ、「ゾン」の空の表情はそのことを思い出させてくれる。見慣れたはずの空の位置を支配して、何よりもこの眼に新鮮に、美しく得体の知れぬものが映るということが、映画の展開を前へ前へと推進しているのだ。

しかしそれは、当然ながら、青くひろがり雲が白く浮かぶ空の様子を、私が至極当たり前の光景として前提に置いているから成立する事態でもある。私が初めて空を見たとき、もちろんそのときのことは記憶にはないが、やはり私が「ゾン」の空に新鮮な驚きを感じたように、清冽なものを眼にとらえたはずではあるまいか。いま「ゾン」に直面して、私が初めて眼にした空の記憶が、呼び覚まされる思いがする。そして「ゾン」の映像にも見慣れた頃、晶や麗実や一歩の眼に映る青い空は、またふたたび新鮮な輝きを放ってスクリーンに登場するのだ。『美しい星』(2017)や『散歩する侵略者』(2017)とはねじれの位置にある、しかし確実に新しいSFの誕生を見た。

鈴木卓爾監督、2018年。

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