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雑記(三八)

 村上春樹の短編「独立器官」では、五十代で独身の美容整形外科医が、十六歳年下の女性と恋に落ちる。女性には二歳年長の夫がいて、五歳の娘もいた。この医師はこれまでに、既婚者を含む多くの女性たちと、しかも同時に二、三人との関係を持つことも多かったのだが、思いがけず、この女性には、特別に深い思いを寄せることになってしまった。医師はこのことを、友人である「僕」すなわち「谷村」に告白する。

 医師の名は「渡会」という。「とかい」とルビがある。渡会は谷村に言う。「『逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり』という歌がありますね」。谷村は答える。「「権中納言敦忠」と僕は言った。どうしてそんなことを覚えていたのか、自分でもよくわからないけれど」。「権中納言敦忠」には、丁寧に「ごんちゆうなごんあつただ」とルビがある。

 このあとには、すこし長い渡会の言葉が続く。「『逢ひ見て』というのは、男女の肉体関係を伴う逢瀬のことなんだと、大学の講義で教わりました。そのときはただ『ああ、そういうことなのか』と思っただけですが、こんな歳になってようやく、その歌の作者がどういう気持ちを抱いていたのか実感できるようになりました。恋しく想う相手と会って身体を重ね、さよならを言って、その後に感じる深い喪失感。息苦しさ。考えてみれば、そういう気持ちって千年前からひとつも変わっていないんですね。そしてそんな感情を自分のものとして知ることのなかったこれまでの私は、人間としてまだ一人前じゃなかったんだなと痛感しました。気づくのがいささか遅すぎたようですが」。

 渡会の一首に対する感想、自身の経験に照らした感慨は、かなり陳腐である。特に、「そういう気持ちって千年前からひとつも変わっていないんですね」は、ちょっと気が抜けるような平凡さだ。誰でも言いそうなことである。百人一首のきわめて有名な歌を引いて、こんなことを言うということは、この渡会という医師の、意外な純朴さ、純粋さを示すのだろう。

 この「独立器官」を収める短編集『女のいない男たち』(文藝春秋)には「まえがき」がついていて、そこで村上は「本書のモチーフはタイトルどおり「女のいない男たち」だ」と書いている。そしてそれを、「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」と言い換えている。収録作は順番に、「ドライブ・マイ・カー」、「イエスタデイ」、「独立器官」、「シェエラザード」、「木野」、「女のいない男たち」。いずれもたしかに、女性との死別や生別に際会する男性が中心になっている。「独立器官」の渡会も、やがてその心を傾けた相手の女性に去られることになる。

 この『女のいない男たち』は、その前に出た短編集『東京奇譚集』(新潮社)がやや退屈であったのに比べて、格段に面白い。それは、女に去られた男、男に去られた女、あるいはまた、親しい何ものかに去られてしまった人間、ということ自体が、誰しもにとって切実な問題になりえるからであろう。それが、文学作品の主題としてきわめて古典的かつ普遍的であることも、理由のないことではない。

 その点は、「権中納言敦忠」すら、例外ではなかった。敦忠の悲恋は『大和物語』に伝えられている。

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