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雑記(六)

 一九三六年の二月二十六日の朝五時ごろ、栗原安秀の率いる一隊は首相官邸の襲撃を開始した。当時の首相は岡田啓介である。同じころ、丹生誠忠の率いる部隊は、栗原の部隊の後続として、首相官邸の坂をのぼっていた。この部隊は、首相官邸を栗原の部隊にまかせて、時の陸相・川島義之のいる陸相官邸に向かう。そのなかには、村中孝次、香田清貞、磯部浅一ら、二・二六事件の首謀者もいた。

 後に磯部は、このときの様子を、獄中で次のように書き残している。「村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、午前四時二十分出発して、栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。其の時俄然、官邸内に数発の銃声をきく。いよいよ始まつた。秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ」。

 この磯部の手記は、河野司の編になる『二・二六事件ー獄中手記・遺書』で読むことができる。河出書房新社、一九七二年刊。河野の「あとがき」によると、日本週報社から一九五七年に『二・二六事件』を刊行したが、「売行きは出版社の思惑を裏切って伸びなかった」。「その後、徐々に需要を見て三十六年に千部の再版を見た」が、「四十一年頃、日本週報社の解散に際し、残部百余冊を私が買取った」という。「三十六年」、「四十一年」はそれぞれ、一九六一年、一九六六年のことであろう。その後、「偶々四十二年仙台において、磯部、村中両名の獄中手記が発見され、「文芸」誌上に公開するに及んで大きな反響を呼んだ」ともあり、その他の資料の充実もあって、前著の増補改訂がなったらしい。

 磯部の右の記述の直後には、括弧づきで、こうある。「(同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やつて見るといい。余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ)」。不敵な書きぶりである。

 松本清張の『昭和史発掘』は、磯部のこの記述を冷ややかに見る。「すでに処刑が逼り、明日にも銃殺されるかも知れない獄中で磯部がこれを書いたことを考慮する必要がある。獄中日記の中で天皇に怨嗟の意味の文章を綴っている磯部の心情からすると、右のカッコ内の字句は敗北した彼の虚無的な絶叫にも聞える」。なお、『昭和史発掘』は単行本、文庫版、文庫新装版で、巻数と各巻の収める章の範囲が大幅に変わっているが、この部分を含む「襲撃」の章は、文庫新装版では第七巻「2・26事件Ⅲ」に入っている。

 清張は「虚無的な絶叫」という。それは、どうだろうか。この興奮と快感の経験の告白は、かなり実感的なものではなかったか、とも思われる。

 磯部は同じ手記のなかで、相沢事件のときのことも書いている。二・二六事件の前年八月に、相沢三郎中佐が永田鉄山軍務局長を斬殺した事件である。磯部はその日、西田税の訪問を受けて、「昨日相沢さんがやつて来た、今朝出て行つたが何だかあやしいフシがある、陸軍省へ行つて永田に会ふと云つて出た」と言われた。しかし磯部は数日の腹痛がおさまったところで、「余は病後の事とて元気がなく、氏の話がピンとこなかつた」。

 その後、村中孝次の兄を出迎えるために上野駅に向かった磯部は、車中で西田の言葉を思い出す。「そして相沢中佐が決行なさるかもしれないぞとの連想をした。さうすると急に何だか相沢さんがやりさうな気がして堪らなくなり、上野で村中氏に会はなかつたのを幸ひに、自動車を飛ばして陸軍省へ行つた」。相沢のことを思い出して、身体的な不調など忘れたかのようである。「省前は自動車で一杯、軍人があわただしく右往左往してゐる。たしかに惨劇のあつた事を物語るらしいすべての様子。余の自動車は省前の道路でしばらく立往生になつたので、よくよく軍人の挙動を見る事が出来た」。

 磯部の気分は高揚してゆく。「往来の軍人が悉くあわててゐる、どれもこれも平素の威張り散らす風、気、が今はどこへやら行つてしまつてゐる。余はつくづくと歎感した。これが名にし負ふ日本の陸軍省か、これが皇軍中央部将校連か、今直ちに省内に二、三人の同志将校が突入したら陸軍省は完全に占領出来るがなあ、俺が一人で侵入しても相当のドロボウは出来るなあ、情けない軍中央部だ、幕僚の先は見えた、軍閥の終えんだ、今にして上下維新されずんば国家の前路を如何せんといふ普通の感慨を起すと共に、ヨオッシ俺が軍閥を倒してやる、既成軍部は軍閥だ、俺がたほしてやると云ふ決意に燃えた」。

 磯部は二・二六事件の約半年前、陸軍省の前で「二、三人の同志将校が突入したら」とか、「俺が一人で侵入して」とか、想像をめぐらせていたのである。しかしいま、二月二十六日、首相官邸の坂をともにのぼっている部隊、各所で襲撃を開始しようとしている部隊の人数は、まったく、その比ではない。「あの快感は恐らく人生至上のものであらふ」という磯部の感想は、かなり、実感にそくしていたのではないかと思う。あるいは、この相沢事件のときの記述も含めて、「虚無的な絶叫」であったのだろうか。

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