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地震の記憶から

1995年1月17日 阪神淡路大震災

当時、私は大学生。
この日は、コンビニの夜勤バイトだった。

地震発生

明け方、レジで接客中の出来事。

横にゆらゆら

それまでに経験したことのない、ゆっくりとした横揺れが長く続いた。

お客さんと私は、互いの顔を見ながら目をキョロキョロさせ「長いですね。」などと話しながら.揺れが収まるのを待っていた。

しかし、突然それは襲ってきた。

ドン‼️

縦の強い衝撃!

「すごい地震でしたね」などと、軽く話を交わして接客を終え、店内を見回る。

生活品の棚の商品は倒れ、次々と床に投げ出されていく。
バックヤードのジュース棚もひどい有様だ。

バイトに入っていたもう1人の先輩が、車のラジオをつける。

大したニュースは流れていない。

午前6時、朝勤と交代の時間。
「散らかった商品は任せてください」との優しい言葉に甘えて、帰路に就く。

帰り道、線路の途中で電車が停車している。
恐らく、先ほどの地震からずっと止まったままだろう。

まだ6時、薄暗く辺りは静まり返っている。
疲れた、原付バイクで家へと帰り、眠りにつく。

とんでもないことになっていた

眠りから覚め、どれくらい経ったかは記憶にないが、ニュースを見ると、とんでもないことになっていた。

高速道路が倒れてる⁉︎

目を疑うような光景だった。

私は大阪の南側、奈良に近いところに住んでいた。
家の被害はほとんどなかった。

これまでに経験したことのない揺れだったが、これほどのものとは想像もしていなかった。

関東に引っ越してからも、神戸には何度か観光に行った。

メリケンパークやポートタワーを見ると、ニュースや現場で見た、ひび割れた地面や、倒れた高速道路を思い出す。

2011年3月11日 東日本大震災

この日はオフィスで仕事をしていた。

地震発生

明るい時間。

横ゆれの地震
長い、イヤな予感がする

当時のオフィスは古いビル。
場所は2階。

まずい!
阪神淡路大震災の記憶が蘇る。

非常扉が目に入った。

外の階段に続く大きな非常扉の近くにいた人に、叫んだ。

非常扉を開けよう!

オフィスへの入り口は狭い。
閉じ込められないように出口を確保。

揺れはしばらく続いた。
かなりの恐怖だった。

揺れはおさまり、通常業務に戻る。

帰宅

当然、電車は動いていない。
交通機関は麻痺状態。
情報インフラも麻痺。

道路は人で溢れかえっている
見たこともない人の行列。

当時は妻と付き合い始めた頃だった。
妻の職場は住んでいる場所のすぐ近く。

妻の職場の建物は新しく頑丈。
問題はないだろうが、心配だ。

足早に人混みをかき分け、長い道のりを家へと急ぐ。

家に帰ると、食器棚から皿がいくつか落下して、割れた破片が飛び散っていたが、大した被害ではなかった。

違和感

地震の影響で数日の間、出社時の交通機関は、いつも以上にごった返していた。
当時の通勤経路は、練馬区から飯田橋。

乗り換えの池袋駅では身動きが取れず、まるで、地獄絵図。

この時はまだ気づいていなかったが、少しずつ体に違和感が現れ始めていた。

確信

余震の影響で、時々電車が止まる。

満員電車の中、いつも以上の不快感。
不快感というよりも、不安と緊張。
我慢できない。
心拍数が上がる。

停車中のすし詰めの電車内で、ボソッと

降ります

のひと言が口から出ていた。
降りれるわけもないのに、、

おかしい
なんだこの気分は?

まだスマホというものがなかった当時、iモードでこの症状を検索する。

該当するのはどうやらPTSD(心的外傷後ストレス障害)のようだ。

これがそうなのか
でも、そうなのだろうな

病院に行って診断してもらったわけではないが、素直にこの状況を受け入れることにした。

そして、翌日から自転車通勤に切り替えた。

PTSDと思われる症状のその後

この症状は2,3年続いた。
徐々に治まっていき、今では全く問題ない。

弊所恐怖症気味の所は、昔から変わらないが。

恐らく、阪神淡路大震災を経験し、当時の惨状が蘇り、自分ごととして、体が強いストレスを受けてしまったのだと思う。

被害に遭った地域の建物など、目に見えるインフラの復興もそうだが、当時の記憶を思い出している内に、心の傷という目に見えないものの存在についても改めて考える機会を得た。

まだ心の傷の癒えない方々がたくさんいると思う。
1秒でも早く、心が救われることを願う。


2018年6月18日 大阪北部地震

大阪へ当時6歳の娘と2人で帰省した時のこと。
この日は実家の2Fで娘と2人で寝ていた。

朝、私と娘は目が覚めた。
私は、外の景色を見るために、障子を開けベランダだの窓を開けた。

ぐらぐらぐら

窓を開けると同時に、家が突然揺れ出した。

なんかやらかしたか⁉︎

と一瞬思ってしまった。

娘も私が何かやらかしたと思ったそうだ。

冷静になり、地震だと気づく。
大阪北部地震だった。

これも、死者が出る大きな地震だった。

この日は我が家へ帰る予定だった。
交通機関は麻痺していた。

実家の父と母は

帰れるんか?

と心配していた。

当然、1人我が家に残った妻も同じ思いだった。

しかし、私は娘を連れて、とにかく行けるところまで行こうと、午前中に家を出た。

最初に目指すは京都。

JRはまずあてにならないだろうと思い、すでに動き出していた近鉄線を選択。
奈良回りで京都へ向かうことにした。

途中、特急券は販売を停止していた。
しかし、電車は目の前に来ている。

じっとしていても埒が開かない。
車掌に状況確認する。

乗っていいですよ、ただ全席指定なので、席の方が来たら代わってください。

とのこと。

中はガラガラ、、
この状況で誰が乗ってくるのか

ここまで来て引き返せない。
とにかく特急に乗り込み、無事に京都に到着。

次に目指すはみどりの窓口。
新幹線のチケット購入だ。

とんでもない行列

列は進まない、途方に暮れる。
しかし、並ぶしかない。
チケットが取れなかったら、京都で泊まればいい。

泊まるところがあればだが、、

6歳の娘の気を紛らわせながら2人で並び続け、ようやく出番が来た。

東京までのチケットをください

窓口の人は、

ダイヤが乱れており、いつ乗れるかわからない

という。

またもや埒が開かない。

新幹線はごった返しているかもしれない。
できれば指定席が良かったが、手に入らないものは仕方がない。
自由席で手を打った。

なんとかチケットを手にすることができ、改札の中へ。

行列の割には、ホームにはほとんど人がいない。
新幹線はすぐに来た。

車内に乗り込む。

ガラガラだ

特急と同じく、ほとんど誰もいない。
どうやら皆、いつくるか分からないものを待つのをためらっているようだ。

こちらは強引に前へ進んだことが功を奏したようだ。

車内販売がやってきた。
こんな時でも稼働中。
心身共に疲れていた。
とても助かる。

娘は能天気にしているが、疲れただろう。
アイスとお菓子を買ってやる。
私はビール。

大変な1日だったが、それほど時間はかからずに、我が家へ帰ることができた。

3度の地震の記憶から

大きな地震が起きるたび、まだまだ十分ではないが、備えや復興への取り組みは良くなってきていると感じる。

大変な思いをしたが、私の場合はたまたま運が良かった。

しかし、運ではどうにもならないことがほとんど。

我が家でも、水や食料、防災グッズの備えはしている。
しかし、有事の際にどう動くことになるのか。

これまでの経験から、もっと学ばなければならないことがあると改めて感じた。

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