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「ピントは手前の目に」というポートレートの呪縛

1. 師匠筋から随分昔に怒られたこと

 とまあ、昔、師匠筋からSNSで怒られたネタを一つw。「これピン外しているし」っていう指摘と「ピン外した写真はモデルさんに失礼だからアップするな」という指摘。これは各々別の写真で言われたことなんですが、それで喧々諤々と議論が噴出したというね。実は前者はピントピーク(最も解像感が上がる位置)は外れていたが被写界深度内に入っていてちょっと甘い写真。後者はピント外していたんですが、全体が甘い描写が気に入ってアップした写真です。というのも、僕ははじめスナップから写真を初めたところがあるので、珍しく反論したんですw ちなみにそれ以降も師匠筋との関係は悪くないですよ、多分w。

 実はここのトップ画像は奥の目のほうにピンがあってますw ピントよりもちょっと恥ずかし気な雰囲気が伝わればいいなと思ってこの写真をあげました。

2. スナップの自由さ

 僕自身はスナップから初めて、やっぱり、巨匠 森山大道さんの「写真よさようなら」などに影響されていた口です。ですので、アレ・ブレ・ボケは写真の表現として当たり前だった。でも、何故かポートレート、特に女性ポートレートではこれは嫌われる傾向にあるんですよね。そこが写真の難しいところです。

3. ポートレートにおける写真の自由度

 とはいっても写真に対してのエフェクトとして概ねどんな表現がいま使われているかというのを少し整理してみました

 3.1 カラーグレーディングとフレア・ゴースト

  クロス現像というかフイルムエフェクトは僕はよく使います。ただ、これは全体に色が転ぶ感じなので、現在は暗部をグリーンに転ばせるカラーグレーディングなどが「エモい」といわれるところでしょうか。実は僕も使っていますがw。最近のオールドレンズだとフレアやゴーストを意図的にいれたりしますね。あとハイライトのにじみなどはフィルターワークですね。ちなみに色のころびはクロス現像はともかく、もともとフイルムスキャンの悪癖(きちんと色調整していると粒状性はあるものの色の再現性は正確)でだし、後者はレンズ設計者が極力回避しようとしていた迷光ですw

 3.2 アレ・ブレとハイコン

  このあたりは現像・レタッチで作画意図によってはされていると思うのですが、女性ポートレートではやっぱりアート系の写真での話になりそうです。アレに関してはこれって粒状性をあげていくと肌が荒れているように見えるんですよね。そういう意味ではちょっと微妙で、わりとアート志向のモデルさんぐらいかな、これがOKであったりするのって。ブレはまあわりと多いかと思いますが、それでも顏全体がぶれているのは少ないかと(顔出しなしとかスローシンクロで顏をとめた後ぶらすとかいう撮影は別ですがw)。ハイコンはしわやほうれい線の問題があったりするのでこれも撮影位置や光の読みが必要になったりしますね。

 特に女性を撮るときには、フォトグラファーの作画意図と一般的な「綺麗さ」が相反することがあるのでそこにジレンマがあったりします。

4. 何故ポートレートでは「メインの被写体ボケ」が嫌われるのか

 で、いま上げた以上にメインの被写体の目にピンがあってなかったり、被写体そのものがピンが来ていない写真はオミットされあまり目に入りません。概ねセレクト時に失敗写真とみられることがほとんどですね。

 4.1 目の重要性とピント位置のスティグマ

   確かに視線や目の形(正確には眼輪筋)の動きがその時の感情や情緒などを表すことが多いです。「目は口ほどにものをいい」ってやつですね。そのためかほとんどの写真は目に(特に手前の)目にピントが来ているのをよしとしています。ただ、これ自体が「いい写真=手前の目にピント」っていうのが常識にされてしまうという問題があるような気がします。その点はスナップ以上に固定されていますし、そこが表現としての制約になっている感じがします。

 それと、ピンが人物以外に来ているとそこに注目がいくので主題が人物なのか背景の一部なのかということになると鑑賞者にはわかりにくくなってしまいます。

 4.2 被写体の「ボケ」を写真表現とした写真家

  さて、ではポートレートで被写体ボケをつかっている写真家はというと次の大御所がやってますね

  4.2.1 Antoine d'Agata/Stigma

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    まあ、AIが書いたようなヌードといってもいいくらいブレとボケを多用されていますねw

  4.2.2 Norman Parkinson/Portrait in Fashion

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  こちらは王道のファッションですがそれでもピンを外した作品を表紙に持ってきています。

  4.2.3 Deborah Turbeville: The Fashion Pictures

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  こちらも70年代にファッションでアレブレボケを全部ぶち込んだ作品

  4.2.4 その他

   まあ、Avedonも初期はアレブレボケ多かったですし、ソール・ライターも仕事以外ではボケ(特に前ボケ)を多用した作品が多いです

5. カメラに実装されているAFによる固定観念

  ということでここにあげた大御所で気づくのはカメラがAFを実装する以前の写真作家であるということ、ダガタは確かライカでマニュアルで撮っているのでそういう意味ではあまりAFを使っていません。

 最近のカメラをAFで使おうとすると、基本的に顔認識や瞳認識で逆にピント位置を大きく外すほうが難しくなってきています。そういう意味ではカメラメーカーもそれに影響されやすいアマチュアポートレート界隈(僕も含めてですが)、手前の目にバチピンがデフォルトになりそうでない写真は失敗ということになっています。それも暗黙の制約で。これは多くの写真審査(でも中には「えっ」っていう作品を推される選者の先生もいらっしゃいますが)でもそうですね。

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 確かに目は情動を示しやすくバチピンで視線がある写真は「強い」写真だと思います。でも、それが制約となってしまうとこういう写真はオミットされてしまい、それは表現として面白くないんじゃないかとおもいます。

 浅い被写界深度とピンはそれ以外を除算して強調する作用があり「写真は引き算」という意味では正しい写真だと思います。ただ、その正しさだけが面白い写真なのかというと、ちがうかなって思います。ピン以外に、そしてピントが甘いことを含めて伝えたいこと、映り込んでいるものがあると思いますし、そこをみてほしかったりします。例えば、ソウル・ライターの作品などはピンの来ている部分だけでは、あのボケの多さは説明できないのじゃないかと思います。リンク先の作品、現代美術的な視点でぼやけた部分の諧調や変化、色かぶりなどみていくともっともっと世界が広がっていく。そして一見ピンの部分でストーリーをつけているのですがそれ以外の純粋写真的に見てほしかったのではないかという感じ方ができるかと思います。

 僕みたいなへっぽこがいってもあんまり説得力がないのですが、「写真は自由でいい」、とくにクライエントがない自分のようなアマチュアは自由になっていいんじゃないか、ピントがきていなくても面白いなっていうものを増やしていいんじゃないかって思います。ピンぼけはCapaの本のタイトル(ちょっとピンボケ Slightly Out of Focus)にもなっていたように写真らしい表現だと僕は思いますからね。

  ピントは強調し浮き出させる意味で有効な手段ですが、それを一度わきに置いてもう一度写真を見てみるとそこに何かが写っています。ピントだけで写真の面白さをきめてしまってそういう写真をスルーするのはもったいないですね。


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