9話(田中)

 稲穂比古に山背が出会ったのは、かれこれ五年前。隣国七節との戦の折である。耶雲の人間にとっては思い出したくもない負け戦だった。
 七節は元々資源に乏しい貧しい国だった。それを今の名君と名高い七節の国守が、流通に力を入れて盛り上げたのである。安く仕入れたものを、高く求めるところに売る。そうして得た利益が国益になった。
 七節は形のないもの、つまり情報も扱っている。七節の間者は精鋭として名高かった。耶雲の逆側の隣国、蘇芳(すおう)を密かに抱き込んだ七節は、満を持して耶雲に攻め入ってきた。
 それが五年前のことだ。
 国と国の戦の仲裁は余程の力を持った国ではないと出来ない。耶雲が頼るべき誓筮京は当時の帝が病に臥せっていてそれどころではなかった。帝には直系の子がおらず、一番血が近い皇族は三代先まで遡らなければならない。
何とか回復をと祈願する者、薨去した後のことを画策する者、中央の権力者たちは様々な思惑を抱え合い、水面下で牽制し合っていた。
 地方の戦に構っている暇はない。攻め入る七節と蘇芳に耶雲は単身で応じるより他はなかった。


「馬鹿野郎。そんなところに突っ立ってる馬鹿がいるか」
 自分よりも幾らか年上の男を、山背は怒鳴りつけた。空から降ってくる矢音を耳にして、山背は男の首根っこを掴むとずるずると物陰に移動した。
 仲間の遺体から盾を拝借すると、木の下に移動すると傘のように上へ掲げた。かつん、と真上から矢がすべる音がした。山背は大きく息を吐いた。
 耶雲人々は慢心していた。元々古代より耶雲の地は鉄が盛んにとれる。
 加えて七つの大河がもたらす肥沃な大地は豊かな実りをもたらした。武器も兵糧も備蓄は多くある。どこかに七節に対して二流の国よと侮りがあった。
 その結果がこれだ。悔しいのは、この戦況が侮りばかりの所為ではないことだった。七節はもはや強国と呼ぶに相応しい。実力のある国だと認めざるを得なかった。
 山背に引きずられた男は、切れ長の目を見開いて瞬きをした。汗が目に垂れている。成程、その鎧では暑かろうて。
 男は貴族であることが伺える、大層な鎧を着ていた。どこの若君かは知らないが、いずれにしても庶民の山背とはこんな状況でなければ出会うこともない人種だろう。山背は当時十代だった。兄は嫁を取ったばかりで、家を継がなければならない。弟は戦に出れるような年ではない。山背に白羽の矢が立つのは当然のことだった。
 家族は山背を心配したが、山背は自分自身のことを心配していなかった。山背は喧嘩が強かった。そればかりではなく、珍しい特性があった。
 人を殴ること、殴られることに躊躇がない。それが珍しい特性であることに気づいたのはある程度大きくなってからのことだ。喧嘩をする時以外の山背は至って"まとも"であり、暴力的な振る舞いをしなかった。集団が苦手なところがあるが、鼻つまみ者ではなかった。
 自分で予想していた通り、山背は戦場で人を多く殺め、生き残った。傷つくことを恐れない方が、足が竦んで動けなくならない分、生き残る活路が開けるものだ。
 戦場の山背を知る者は、多く山背が嗜虐的で、血を見ることが好きな人間だと誤解する。山背に言わせれば全くの誤解だった。山背とて殺したいわけでも死にたいわけでもない。必要だから殺すだけだ。
 弓の大雨が止み、一時の静寂が流れた。今まで口を開かなかった若君が、汗を振り払うように首を振った。
 若君――男は山背を命の恩人だと言った。命の恩人と言う言葉にはどこかお伽噺めいた響きがある。
 多くの戦死者を目の当たりにしておきながら、山背はその言葉で改めて、ここは本当に命のやりとりをする場所なのだと、実感した。現実味のない言葉が現実味を帯びて存在する場所なのだ。
 無性に馬鹿々しくなって、山背は声を上げて笑った。
 何でこんなことになっている?見下げていた貧乏国の七節が何故耶雲をこんなに苦しめている? 
 天地がひっくり返ってもあり得ないではないか。男は山背の様を面白そうに見ていた。その時初めて、山背はこの男を何となく気に入らないと思った。こうやって、他人の感情の様を娯楽にする男は俯瞰的な印象があり、腹が読めない。
 掴ませないくせに掴んで来ようとするところが癇に障る。睨みつけると、男は笑った。
「忙しい奴だな、君は」
「俺は命の恩人なんだろ」
「全くその通りだ」
「アンタ偉いんだよな」
「確かに、身分で言うのならば、君よりは偉いのかもしれない」
 山背はぐいと男の首元を掴んだ。男は予想外のことだったようで、目を瞬かせた。
「この戦をさっさと終わらせてくれよ」



「今度は国外に出ろだなんて、一体どういうことなんです」
 山背は思わず声を荒げた。それでなくとも、稲穂比古には思う所が沢山ある。あの邂逅から暫くして、山背は稲穂比古の身分を知った。未来の国守様に対しての数々の振る舞い、打ち首か、磔か。それとも、世慣れしていない様に見えたので、恩義だけを感じてくれて、山ほどの褒美を賜るのか。
 一喜一憂した後、考えることに飽きて何も考えなくなって程なく。山背にもたらされた連絡は、そのどちらでもなかった。
 宮仕えをしないかと言うお達しだった。国が山背の務め先を保証して、給金を払ってくれる。願ってもないことだ。
 戦場の働きから、退屈に屈することなく愚直に務めをこなすことから、城の最も奥にある内宮の門番に抜擢されたのである。
 正直なところ、あの状況で何を根拠にそんなことを思われたのか全く心当たりがなかったが、あの時の山背はまだ世慣れしていないところがあり、命を救われた人間が思惑をもって山背を欺くことがあるなど、思ってもいなかったのだ。
 その結果が、気まぐれな稲穂比古様のお付き、そして我儘な能登殿のお付きである。
「安心しろ。能登殿もご一緒だ」
「全くもって何を安心しろと言うのですか」
「ご一緒の方がお守りしやすいだろう」
「アンタ馬鹿か!」
 思わず本音が飛び出して、思わず両手で口を押えた。稲穂比古と対峙するといつもこうだ。調子を狂わされて、思うようにことを誘導できない。逆に、気づいたら稲穂比古の思う壺になっているのだ。
「五年前にお前は戦を終わらせろと言ったな。私はあの時七節殿に、耶雲の国宝を質に入れたのだ」
「国宝?」
「山護の剣だ」
 山護の剣。山背は記憶を辿った。神話では、大蛇は後に耶雲の山護になる英雄によって倒された。大蛇の首からはある一太刀の大剣が出てきた。英雄がその剣を一振りすれば、秋の季節が蘇り、稲穂が頭を垂れて現れた。
 一振りすれば今まで大蛇によって殺められてきた人々が蘇った。剣は時すらも斬り、生だけではなく死をも斬った。蛇が死と再生を司る様に、大蛇から出てきた剣は、死と再生を司るこの世で唯一無二の、神すらも殺めることが出来る神剣だ。
「ええ?」
 思い至って山背は間の抜けた声を上げた。それこそまさに神代のお伽噺。現実ではない話ではないのか。ここは戦場ではないぞ。
 稲穂比古は切れ長の上品な目を仄かに弓なりに曲げた。やはり冗談だったのだと、何故だか安堵した山背は次の言葉を待った。
「そうとも。当時皇太子だった私は神剣を七節殿に質に入れたのさ。お前には能登殿と一緒に密かに剣を迎えに行って欲しいのだ」
 冗談ではなさそうだった。げんなりして、山背はそれでも反抗を試みた。
「能登殿に使い走りをさせるのですか? 誓筮京を敵に回すおつもりか」
「まさか、とんでもない。剣とは言っても、耶雲の山護の大切な剣だ。礼を尽くして迎えなければならない。能登殿は使者としてそれに相応しいお方。それに、能登殿の問題を解決するには恐らく、あの神剣が必要だろうからね」
 ぎくりとして、稲穂比古の方を見た。やはり何かを知っている様子だ。多くの疑問が過ぎったが、山背はとりあえず、最初の疑問を口にした。
「いや、でも、七節の国守様の物を返してもらうことなんて出来るんですか?」
「質だと言っただろう。そもそもあの神剣は誰でも使えるわけではないのだ」
 五年も経った。質を迎えに行くのは十分だろう。稲穂比古は山背に笑いかけた。
 何故笑うのかさっぱり理解できなかった。


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