10話(透)

 七節へ向かう旅の支度は、あれよという間に整った。整えられてしまった、というのが正しいか。
 山背が稲穂比古から七節行きの勅命を下された翌朝、能登も同じ話を聞かされ、旅立ちのための支度を始めたらしい。「らしい」というのは、これが能登本人から聞いた話ではなく、能登付きの女官の一人から漏れ聞いた話であるからだ。
 稲穂比古の勅命が下ったその日から、旅立ちの前日までの五日間、山背は一度も耶雲の城へ登城していない。日常の業務からは外してやるゆえ、旅支度の時間に充てよとのお達しがあったからだ。しばらく会えなくなるのだから、今のうちに家族と過ごしておけというのである。まるで、戦場に駆り出される兵卒の如き扱いではないか。
 防人に過ぎぬ山背は、仕事はせずともよいと言われてしまっては、勝手に西宮を訪れることは許されぬ。それで致し方なく、顔見知りの女官に様子を問うたのだ。旅立ちの件、果たして能登は了承しているのか、と。
「了承も何も、稲穂比古様からのたってのお願いですもの。あの我儘姫だって、否とは言えないでしょうよ。元々、稲穂比古様と薫光帝との間では話がついていたそうだし」
 薫光帝。能登の実の兄にして、誓筮京の今上である。なるほど、それを聞いて山背はいくらか納得した。血で血を洗う内輪もめの末に帝の地位に収まった男と、耶雲の強かな主との間に、どういった取引があったのか、朧気ながら見えてきた。
 兄を帝の地位につけるため、豊武の山護と身に余る契約を結んだ能登。対価を払う気のない能登を守るためか、あるいは災いの種になりかねぬこの娘を厄介払いするためかはわからぬが、薫光帝は妹を預ける先に耶雲を選んだ。
 代わりに耶雲が要求したのが、七節から神剣を取り返すための使者に、誓筮京の内親王である能登を立てることであった、というわけだ。
 五年前には大敗の憂き目を見た耶雲も、稲穂比古の堅実な政策もあって今では随分復興した。蘇芳との和議も成立し、七節に遅れを取ることはない。そこへ、誓筮京の息がかかった使者が訪れたとあっては、七節もこれを迎えぬ訳にはいかぬであろう。
 しかし──、
 旅立ちの当日、山背を迎えたのは、およそ国威を示す使節団とは思われ得ぬ、頼りない旅の顔ぶれであった。

 ちりんちりんと鈴を鳴らし、大仰に進む一団がある。
 耶雲の城から西へと続く畦道を渡るのは、まず御旗を掲げた若い男である。防人の同僚ではあるが、ここ二、三年のうちに入ってきた新参者で、山背とはあまり馴染みがない。腰には剣を帯びているものの、緊張ゆえかあまりに肩肘が張っており、戦力としては期待できぬように感じる。
 それに続いて、明らかにやる気のない女官が二名。足腰はしっかりしていそうだが、表情はいかにも暗く、この任務を命じられた我が身を恨んでいる様がありありと見て取れる。背後には御簾を垂らした輿が一挺、それを担ぐ力者が六名に、帯剣した防人が続いている。御簾の中にいるはずの能登を含め、全十五名の、随分な大所帯である。
(帯剣している者は、俺を含めてたったの六人、……)
 この面子で旅に出ろと言われた際には我が目を疑い、どうも冗談でも何でもないらしいと理解してからは、稲穂比古に文句をつけてやろうと意気込んだが、聡明な山背の主は、ついに見送りに現れることすらしなかった。
 馬鹿げている。たったこれだけの人数で内親王をお守りし、敵国であった七節に足を踏み入れるなど──。その上。
「おまえがこの一団の責任者だ。臨機応変にせよ、との稲穂比古様直々のご推挙である。期待に沿うた仕事をなすように」
 旅立ちの際、煤屋から告げられた一言を、脳内で反芻する。あの時は、平時であれば比較的温厚な山背も、流石に手が出そうになった。山背の発した殺気を敏感に感じ取ったらしい煤屋が、即座に距離をとってくれたおかげで大事には至らずに済んだのだが。
(いや、あの時点で俺が事件でも起こしていれば、無謀な旅に出ずに済んだのか?)
 山背の舌打ちが、隣を歩く防人の耳にも届いたらしい。明らかに肩をびくつかせた仕事仲間を横目に、今度は小さく溜息をつく。いけない。稲穂比古からのあまりの仕打ちに、つい苛立ってしまっていた。
 あまりにあまりな仕打ちであるとは思っているが、こうなってしまったからには、今はこの旅を無事済ませることを考えなくては。耶雲の人間は、能登の身を預かっている立場なのだ。この旅で能登が怪我でも負おうものなら、誓筮京は耶雲を糾弾するであろう。戦になる可能性だってある。
(けど、誓筮京は誓筮京で、山護の祟りをもらいかねない内親王を寄越してきたわけだからな、……)
 そもそも、薫光帝も薄情なものだ。ことを理解していなかったとは言え、山護に己を捧げる約束までして兄を守ろうとした妹を、たった一人で耶雲へ寄越し、七節への危険な旅につくことを許したというのだから。もしこの使節団が七節の者に襲われでもしたら、それこそ戦になるのではないだろうか。その場合、耶雲と誓筮京は敵同士ではなく、手を取り合って七節を討つという構造になるのやもしれないが──。
 そこまで考えて、ふと思い当たる。
 薫光帝がもし、──己の妹を、見捨てるつもりで耶雲へ寄越したのだとしたら。
 薫光帝と稲穂比古が七節を討つ口実に、
 この使節団を、利用しようとしているのだとしたら?

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