12話(透)

 その晩、葛城とその配下を加えた使節団一行は、七節領は矢雁山の麓にある湯治場で宿を得ることになった。
 聞けばこの辺りには昔から豊かな湯が湧き出しており、傷や病を癒す効能を聞きつけた人々が集うことで、自然と宿場町が形成されたのだという。耶雲と七節の戦の折には、この宿場町も負傷者で溢れかえったのだ、と語られる言葉には些か棘を感じたが、山背はただ「さようですか」と答えるにとどまった。互いに剣を取り、戦ったのなら負傷者が出るのは当然のこと。七節側の被害の全容は知れないが、負け戦となった耶雲のほうが、傷は深かったであろうとすら思われる。
 耶雲領を旅する間は、農家に都度交渉し、家を借りて眠っていたが──それですら、能登は田舎臭さを嫌がって、輿から降りようとしなかったこともあった──、今宵は七節の国守の庇護のもと、湯治場の宿を与えられたとあって、耶雲から同行してきた使節団の面々は、いずれも頬を緩ませている。
 わざわざ国境付近まで耶雲の使節団を迎えに来た葛城が、ここで害をなそうと企てている、とは考えにくい。少しくらい気を緩めてもいいだろうかと考えて、しかし山背は充てがわれた部屋を辞退し、己は能登の部屋の前の廊下で眠るゆえ、羽織るものだけ用意してほしいと告げた。
 そうして一人ぼんやりと、板張りの廊下に座り込み、外の景色を眺めている。自身は至極手短に湯浴みを終え、能登が部屋へ戻るのを待っているのである。
 耶雲の城を出て以来、手入れもしていない姿で葛城の前に出るのはどうしても嫌だと駄々をこねた能登は、宿につくなり女官共を伴って、湯を浴みに行ってしまった。山背には我儘姫によるいつもの我儘としか思われなかったが、やや意外なことながら、葛城は能登の言に理解を示した。女の身で馬にまたがり、武人のごとく帯剣するこの国守は、しかし山背のような無骨者とは違う清涼感がある。この感覚の違いは、性差によるものなのか。あるいは貴卑の格差ゆえか。
 胡座をかき、膝の上に右肘を置く。首を傾げて右の拳の上に置き、暮れゆく空を眺めていると、人の気配がした。
 誰かが廊下をこちらに向かって歩いている。能登が戻ったかとも考えたが、数は一人。女官たちを連れてはいない。その上──能登にしては、足音が、重い。
 はっと顔を上げれば、そこに知った顔があった。
「葛城殿」
 七節国守葛城が、隙のない笑みを湛えてそこにいた。
 咄嗟に立ち上がって礼の姿勢をとった山背に、葛城は「よい、よい」と適当に声をかけ、その場へどっかと座り込む。座布団すらない、板張りの廊下に、である。ぎょっとした山背が、しかしどう声をかけるべきか言いよどんでいると、葛城は山背の脛を軽くはたき、「いつまで俺を見下ろしているつもりだ。はよう座れ」と横柄に言った。既視感がある。山背より低い目線からの言葉であるにもかかわらず、見下すような態度は、どことなく能登のそれに似ている。
 国守ともあろうものが、何故共も付けず、突然こんなところへやってきたのだ。「能登殿はまだお戻りではございませんが」言い訳がましくそんなことを告げながら、床を叩かれるまま葛城の隣へ腰掛ける。葛城も湯を浴びたのだろうか。こざっぱりした様子の彼女からは、何やら良い香りがした。
「能登殿は、どうしても他の者に肌を見られたくないというので、奥の湯へ行かれた。戻られるまでまだしばし時間があろう」
「左様ならば、何故」
「なに、おまえと話したかったのだ。──おまえの顔に、覚えがあってな」
 葛城の声が低くなる。もともと切れ長の目が更に細まり、じっと山背を見据えている。
「顔を覚えるのは得意なんだ。五年前、あと一歩で当時皇太子であった稲穂比古を討ち取らんとしたところで、邪魔が入ってな。その邪魔者は、手塩にかけて育てた俺の兵を薙ぎ倒し、稲穂比古めを掻っ攫っていきおった。余程の強者かと調べさせたが、無名の兵であったと報告を受けている。あの時の男は、おまえであろう」
 山背は、すぐには答えなかった。視線を動かさぬまま探る限り、葛城は帯剣していない。少なくともこの場で、即刻山背の首を刎ねるようなつもりではないはずだ。だが他の耶雲兵と同じく、山背が七節の兵を多く殺めたことも事実ではある。葛城は耶雲からの使節団を迎えに来たが、それはあくまでも能登を保護するためのもの。私怨により山背一人斬り殺されたところで、能登さえ無事に耶雲へ戻れば、稲穂比古も文句は言わぬであろう。
「お心あたりの人間が私かどうかは存じませんが、五年前の戦には確かに参加しておりました」
 平静を装って、溜息混じりにまず答える。
「継ぐ土地を持たぬ次男の私は、この身の他に金を稼ぐすべを持ちませぬ。そういう輩は、すべからくあの戦に参加しておりました。そこで運悪く稲穂比古様の目に止まり、やれ市中見聞に付き合えだの、我儘姫の面倒を見ろだの、七節へ行ってこいだのと、今に至るまでこき使われている次第です」
 声に感情は乗せなかった。そのつもりであった。葛城もすぐには答えない。だがしびれを切らし、ちらと様子をうかがった山背を前に葛城は、──口に手を当て、豪快に吹き出した。
「運悪く! 運悪く、稲穂比古に見出されたか! はは、不遜なやつよ。戦場での態度どおり、まったく、気の据わったやつだ」
 何がお気に召したかわからぬが、葛城はなかなか笑い止まず、ついには床板を叩き始める始末である。山背が無言でそれを見守れば、葛城は笑いながら、尚もこんな事を言う。
「まあしかし、これほどの者を護衛に付けたのだ。少なくとも稲穂比古には、あの内親王を守ってやろうという気構えがあるらしい。あるいはそれを知らしめるために、『鬼』を寄越したのやもしれんな。まったく、食えん男だ」
「鬼というのは、まさか私のことでしょうか」
「他に誰がいる」
 稲穂比古といい、葛城といい、なにやら酷い言いようである。思わず顔を顰めた山背ではあったが、しかし葛城の言葉に、些か安堵したのも確かであった。山背自身の身の上を案じてのことではない。葛城が、「耶雲には能登を守る気がある」と認識したことに安堵したのである。実のところ山背も、出会い頭に葛城が発した「稲穂比古が七節に情報を流したようだ」という言葉から、同じことを考えていた。山背の主人は少なくとも、策を巡らせて能登を守ろうとしているように思われる。宝剣の返却を望む耶雲の主としては当然のことであるが、それだけの確信が、今はやけに心強い。
「我々は争いを望んでおりません。主たる稲穂比古様からも、穏便に宝剣を受け取って戻るよう言われています」
 山背が言えば、「ああ、宝剣な」と葛城が言葉を受ける。「そういえば、あの剣は──」と言葉が続きかけた、その時だ。
「山背、──山背! どこにいるの!」
 慌てふためいた女官の声。どすどすと足音を立ててこちらへやってきた女官は、葛城の姿を見て一旦言葉を切り、しかし遠慮している場合ではないと言わんばかりに山背へ歩み寄ると、辛うじて声音を控え、こう告げた。
「大変よ。能登様が──あのお転婆姫の姿が──、どこにも見当たらないのよ!」

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