2話(透)

 遷都。
 それこそが、能登殿が誓筮京からはるばる耶雲へ預けられた理由である。
 霊場を多く持つ豊武(とよたけ)の山々に囲まれ、数多の山護から加護を受けた明日花亥(あすかい)の平野。そこに拓かれた誓筮京は、過去百五十年に渡り帝に治められてきた、随一の都である。しかしながら、近年になって人工が増大化し、人びとの生活を支える木材の入手が困難になってきたことから、明日花亥より北に位置する彩鶴(あやつる)の平野へ都を移すのだという。
 というのが建前ではあるが、莫大な労力と費用をかけて遷都を行う背景には、現帝である薫光帝の権力を揺るがぬものにしようという、政治的な思惑も透けている。誓筮京は七代に渡り白御慈の家系に連なる帝が治めていたが、前帝の崩御に際し、吉野桃華の家系に連なる薫光帝が位を継いだ。誓筮京にあっては今なお白御慈の家系の権力が強く、薫光帝は後ろ盾となる豪族達の力を求めて、彩鶴へ移ろうとしている──。これが耶雲の見解である。そう外れてはいないだろう。
 薫光帝の連なる吉野桃華の家系は、古くはこの地、耶雲に祖を持つ家柄である。そういった縁ゆえに、薫光帝の妹である能登殿は、耶雲の地へ預けられることとなったのだ。
 
 蹴られた脛を庇いながら、それでもその場へ跪き、一応の礼をとる。相手は内親王だ。防人に過ぎぬ山背とは、比べるのも馬鹿馬鹿しい高貴な生まれのお方である。
「付き人のお役目を拝命いたしました、山背と申します」
 余計な言葉は加えず、それだけ告げて身を起こす。能登は変わらず山背を見下げるような表情で威圧していたが、山背はその顔に笑みを──己の優位を思わせる、穏やかさを装った笑みを貼り付けて、こう続けた。
「いにしえより続く田舎に住まう、ド田舎者にございます。しかしながら、こうして高貴なお方に侍らせていただくことになったのも何かの縁。何卒この無粋者に、誓筮京の洗練された作法をご指南つかまつりたく」
 立ち上がり、あくまでも微笑みを貼り付けたまま、背の低い能登を見下した。
 喧嘩は先手必勝である。妹よ、ありがとう。おまえのおかげで兄ちゃんは、こうして強く生きているぞ。
 臆した様子を隠しきれず、能登が一歩退いた。赤い塗料で花鈿(かでん)を描いた眉間に、薄い皺が寄っている。だが山背の思わぬ反撃に、慄いたのはわずかのこと。能登は傍らに置いた団扇を手に取ると、それを山背に投げつけた。
「ぶ、無礼者! さっさとどこかへ行っておしまい!」
 かくしてお役御免となった。
 その、はずであった。
 
 翌朝まで待ってみても、山背のもとへ付き人お役御免の報せが届くことはなかった。
 誓筮京からお越しになった、気位の高い少女のこと。山背のような取るに足らぬ者に面子を潰されて、そのままにするはずはないと思っていたのだが、どうやら見込み違いであったらしい。「あのような無礼者を二度と側へ侍らすな」とでも言ってほしかった。義に厚い稲穂比古様のこと、朴念仁の山背が少女の心を掴みそこなったからといって、即刻罰を与えるような狭量さでもなし、恐らくは異動を仰せつかって、これまでと変わらぬ防人としての勤めに戻ることができるだろうと踏んでいたのだが。
「山背が参りました」
 西宮にて蔀の外から声をかければ「入りなさい」と能登の声がする。高圧的ではあるが、さして苛立った風は感じない。否、山背の顔を見るなり昨日のことを思い出したらしく、能登は不躾に顔を顰めた。
 訪れたはいいものの、はて、俺はここで何をすればいいのだろうかと、今更ながら首をかしげる。能登は入室を許したものの、山背に何か申し付けるわけでもない。
 今しがたまで、髪を整えていたのであろう。女官達が疲れた様子で、道具を片付け去ってゆく。髢(かもじ)を用いて髪を高く結い、金銀珠玉の髪飾りを付けた能登は、なるほど、皇女らしい高貴な装いであった。
「耶雲の女官は気が利かない」
 吐き捨てたのは能登である。
「蘇芳の打ち掛けを着ているのに、朽葉のかんざしをさそうとしたのよ。そんな地味な色合わせ、誓筮京では年寄りだってやらないわ」
 成程、女官達の疲れ顔には納得がいった。だが山背にはおなごの好みの色合わせなど理解できぬので、黙ってそこへ突っ立っておく。貴人のおわす場では、許しもなしに座すことなど出来ないからだ。能登が不満を言い募るのを、突っ立ったまま聞き流す。次第にしびれを切らした能登が、怒りの矛先を山背へ向けた。
「座りなさいよ。あんたみたいな背の高いのに立っていられると、不快だわ」
「左様でございましたか。これは失礼」
 にこりと笑んで、素直に座す。能登はつまらなそうに鼻を鳴らすと、「それで?」と山背に問うた。
「あんたは何が知りたいの」
 何を問われているのやら、山背にはとんとわからぬ。「なんのことでしょう」と恐る恐る問えば、能登は憤慨した様子でこう言った。
「だ、だって昨日、誓筮京のことを聞きたいと、あんたがそう言ったんじゃない。だから教えてやろうと思って、罷免せずにいてやったのに」
──何卒この無粋者に、誓筮京の洗練された作法をご指南つかまつりたく。
 言われてみれば昨日、そんなふうなことを言ったようにも思われる。山背の含意とはまったく異なる受け取られ方をしたようだが、どうやらこの皇女は、──山背と話がしたいらしい。
「耶雲の人間ときたら、二言目には耶雲では、耶雲の歴史では、って、自分達のことばかり。耶雲なんて歴史が古いばかりの田舎のくせに、何故わたくしが持ち上げてやらねばならないのよ」
 苛立ち混じりの溜息とともにこぼれた能登の言葉に、はっと微かに顎を引く。
 山背はちらと能登へ視線を配り、己の顎に手を当て、しばし唸ってから──、
「問いたいことが何ひとつ思い浮かばぬ故、質問させていただくのは、明日以降でよろしいでしょうか」
 そう問うた。
 能登に投げつけられた団扇を躱し、本日のお勤めは以上となった。
 
 風通しの良い屋敷の内とは違い、一歩外へと繰り出せば、照りつく日差しにさらされる。かしましく鳴る蝉の声を聞きながら、山背はひとつ伸びをした。
 能登のところを追い出されてしまった手前、今日は為すべき用もない。同僚に言って見張りの番でも変わってもらい、のんびりと、耶雲の眺めを堪能しようか。そんなことを思っていると、ふと、見覚えのある女官が視界に入る。能登の世話役の女官である。それが何やら肩を怒らせて物陰へ入っていくのを見て、山背は何気ない風を装って、後について行くことにした。
「もう、ほとほと疲れたわよ!」
 潜めた声音で、しかし何の遠慮もなく言う女官の言葉に、いくつかの声が同意する。離れた木の陰から会話を盗み聞きする山背には見えないが、屋敷の裏の井戸端に、数名の女官が集まっているらしい。
「生けた花が気にくわないだの、味付けが薄すぎるだのって文句ばっかり。皇女だかなんだか知らないけど、新都の小娘が生意気言って」
「ほんと、我儘三昧なんだから。民を導く貴人として、耶雲の奥様を見習ってほしいものだわ。誓筮京ではよほど甘やかされて育ったみたいね」
 そんなことだろうとは思ったが、想像通り、女官達の能登への不満が爆発している。能登の世話を焼く女官達は、山背とは違い、日がな一日能登と暮らさねばならぬ。こうして毒気を抜かなくては、やっていられぬのであろう。
 能登という皇女のことを少しでも知ることができれば、と思ってついてきたが、こうして聞いている限り、有益な情報はなさそうだ。女官たちの口をついて出てくる言葉といえば、我儘、高慢、猫かぶり──。さもありなんと感じ入り、しかし悪口の応酬にも飽きてきた山背が、他所へ移ろうとした、その時。
「ねえ。そういえばあの噂、本当なのかしら」
 「噂?」と誰かが聞き返す。「噂?」と山背も、内心首を傾げた。
「誓筮京では結構有名な噂らしいし、本当なんじゃないかしら」
「ああ、あれでしょ? 豊武の山護様に愛されるあまり、能登様が子供の頃、神隠しにあったって話──」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?