8話(透)

「突然申し訳ない。近くへ立ち寄ったものだから」
 涼し気な笑みを浮かべ西宮の敷居をまたいでみせたのは、耶雲の国守であり、山背の仕える君主たる稲穂比古である。
 流石は良家の子女というべきか、当然のようにこの国の主へ席を譲った能登が、跪いて愛らしく礼をする。上座に腰を下ろした稲穂比古は微笑んで、「もう耶雲には慣れましたか」とまず問うた。返答する能登の態度は、それは見事なものである。
「ええ。みなさまには大変細やかな心配りをしていただいて、感謝に耐えません」
 よくまあここまで、態度を翻せるものだと感心する。だが流石の皇女も、本性の知れている山背の前で猫をかぶり続けるのには、やりにくさがあるのだろう。置物のように気配を消して脇に控えていた山背に、能登がちらと目配せした。今日は下がれという意味だろう。察するやいなや、山背は機敏に平身低頭し、「わたくしはこれにて」と二人の会話を妨げぬ程度の声音で告げた。
 稲穂比古が何を目的に能登の元を訪れたのやら知れないが、山背が知るべきことでもないはずだ。このような場に居合わせたって気疲れするだけなのだから、さっさと退席するに限る──。だが一刻も早く場を逃れようとした山背を、
「おまえはここにいなさい」
 稲穂比古が柔らかな、しかしきっぱりとした口調で押し留める。
 舌打ちしたいのをこらえ、致し方なくすごすごと、山背がその場へ座し直す。きょとんとした様子でいる能登に、稲穂比古は続けてこう告げた。
「能登殿。山背はしっかり務めを果たしておりますか? うら若い女人の付き人としては気が利かぬところもありましょうが、面白き者ゆえ、私がぜひにと推挙したのです。山背が無礼を働くことがあれば、この者を推挙した私の罪も同然。遠慮なく私におっしゃってください」
 おまえか、俺を付き人に推したのは。
 顔を顰めそうになりながら、しかしかろうじて奥歯を噛み締め、平静を保つ。目は伏したまま、顔は上げぬ。だが山背にはこの男──若き耶雲国守稲穂比古が、邪気を感じさせない爽やかな笑顔を浮かべているのが目に見えるかのようだった。
 正直なところ山背は、この御仁が苦手である。
 
 「隠居し、悠々自適の生活を送りたい」と先代国守が宣言したのが、今よりかれこれ二年前。誓筮京の事情とは打って変わって、平和的に座を譲られたこの若き国守、稲穂比古は、しかし血筋が尊いばかりのぼんくらではない。
 稲穂比古より十も年下の山背ですら、その伝説的うわさ話を幾度となく耳にしながら生きてきた。目の前に座すこの男は、幼い頃から神童と呼ばれ、武芸に通じ政をたすけ、それはそれは領民達に愛されて王となったのである。身分を問わず才ある者を登用し、事業を行い国を潤す。なるほどこれは名君であろうと、山背もそうは思うのだ。
 だが、どうにも腹が読めぬ。
 
「今日は山背と共に市井の様子をご覧になられたとか。いかがでしたか」
「そ、そのようなことまで、ご存知でいらっしゃるのですか?」
 答える能登の声が、上ずっている。山背も内心ぎくりとした。能登が身分を忍んで市井に繰り出す話は、あまり広めぬようにと女官達にも釘を差してあったからだ。しかし危険を冒したことを罰されるのではと案じ、身を固くした能登と、日頃の稲穂比古を知る山背とでは事情が異なる。稲穂比古は軽やかに笑って、「山背を伴われたのでしたら、そう危険はないでしょう」と続ける。
「私もよく、そうしていたものです」
「稲穂比古様も、よく、……?」
 能登が、怪訝そうな顔を山背に向ける。山背は答えない。稲穂比古が言う。
「私も皇太子であった頃は、よく山背を護衛につけて市井を散策しておったのです。この男、こう見えてなかなか腕が立つのですよ。五年前、隣国七節との戦の折には、鬼神の如き働きぶりを見せましてね。能登殿の前では、まだ猫をかぶっているやも知れませぬが」
 余計なことを言わないでほしい。心底そう思いながら、苦虫を噛み潰したような表情のまま、「滅相もございません」とだけ告げる山背の傍ら、もはや淑女のフリすら忘れた能登は、「鬼神……、山背が……?」と訝しげに繰り返している。
「僭越ながら、稲穂比古様。能登様に、御用がお有りなので御座いましょう。本日能登様は市井を出歩かれ、お疲れのこととお察しします。この山背の話はさておき、本題に移られては」
「いいえ、稲穂比古様。わたくし、山背の話を聞きとうございますわ」
 すかさず言った能登を前に、稲穂比古はくつくつと笑い、「今日はやめておきましょう」と穏やかに言った。
「これ以上私から告げ口しては、山背に叱られてしまいそうなのでね。この不遜な防人は、なかなか私に心をひらいてくれぬのですよ」
「稲穂比古様、そのようなことはけっして、」
「心中お察し致します。ふてぶてしいとまで申しませぬが、気が利くのか利かぬのか、判断にあまると能登も感じておりました」
「さようでしたか。実は気になっていたのですが、山背の頬が腫れて見えるのは、よもや能登殿のお気を煩わせたのでは」
「能登はそのようなこと致しませんわ。これは女官が、」
「能登様、」
 市井を出歩いた挙げ句、まさか泥だらけに泣き跡までつけて戻ったことを告げるつもりですか、と言外に圧を加え、名を呼べば、能登もそれはうまくないと思い至った様子である。
 能登が言葉を濁すと、稲穂比古も深く掘り下げることはせず、差し障りのない別の話題に切り替える。最近耶雲ではどのような菓子が流行っているので、次は持参しましょうだの、今年は雨量が多く水を治めるのに苦労をしているだのと世間話じみた会話をしばし続け、稲穂比古は「また様子をうかがいに来ます」と最後に告げて、軽やかに西宮を後にした。

「一体、なんだったんだ」
 ひとしきり付き合わされ、疲れ果てた山背が呟く横で、能登はあっけらかんと、「稲穂比古様って、思っていたより気さくな方ね」などと言っている。
「それにしても、あんたをわたくしの付き人に推挙したのが稲穂比古様だったなんて。なかなか覚えめでたいじゃないの、山背」
 そうであった。はっとなり、山背はもう一度、稲穂比古の発した何気ない言葉を噛み締めた。山背が能登の付き人として選ばれたのは、さだめし、同年代の子女ではこの我儘姫をいなせぬゆえ、それ以外と考えて適当に目星をつけたのだろうと思っていた。だが、──
──私がぜひにと推挙したのです。山背が無礼を働くことがあれば、この者を推挙した私の罪も同然。遠慮なく私におっしゃってください。
 稲穂比古はそう言ったが、能登が山背にいくら不満を持ったところで、稲穂比古に罪を問うことなどできるはずもない。つまりは遠まわしに「付き人を変えるつもりはない」と釘を差しにきたも同然だ。
「ねえ、さっきの話はなんだったの? 鬼神の如き働き? 山背が? 稲穂比古様ったらあんまり話を盛るものだから、声を上げて笑いそうになってしまったわ。堪えるのが大変だったのよ」
 稲穂比古は誓筮京から預かった皇女の付き人に、あえて防人を──武人を推挙した。
(稲穂比古様は、もしや能登殿の事情を知っているのか? もしそうなら、一体、どこまで)

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