3話(田中)

「神隠しだなんて、内親王としては箔がつくのかしらね」
「ちょっと。当時は唯の皇女さまでしょ。父君も兄君も帝ではなかったんだから」
 誰かが律義に訂正する。その言葉の裏には若干の悪意があった。
 内親王とは、皇女の中でも帝の近親の女性に対してしか与えられない、特に格が高い称号である。帝を父に持たない能登殿は生まれながらの内親王ではなかった。 
 帝はこの国の政事(まつりごと)を司ると同時に、祭事(まつりごと)も司る。神を祖に持ちながらも俗世におわす、聖と俗とを統べる完全な存在なのだ。
 その縁深き内親王は時には神事を担い、時には斎宮(みこ)として一生を神に捧げることもある。
 成程、豊武の山護に愛されるというのは、帝一族の人間としては言い方は悪いが“箔”がつくのかもしれなかった。
 だとしたら、有名だという言葉の陰には、真実はどうあれ、傍流の皇女が霊験あらたかな山護に愛されたことに対する、皮肉や感嘆や、単純ではない多くのものが混ざっているのかもしれない。
 ふと、能登殿が神隠しにあった時期と、傍流だった薫光帝が皇太子に冊立された時期は、どちらが先だったのだろうかと、疑問がよぎった。


「山背、わたくし外に出たいわ」
 三回目に能登殿の部屋を訪れた時、彼女は淡青と紅の衣を可愛らしく着こなしていた。
 おそらく、山背が訪なう前に女官たちの戦いがあったのであろう。背後には山背が見たこともない色鮮やかな着物たちが脱ぎ棄てられていた。
 能登殿は本日の装いには満足した様子で、しゃらりと簪を涼やかに鳴らして、山背の前でくるりと回った。
 良くお似合いです、と恐らく求められている答えを言うと、能登殿は珠のように笑った。
「耶雲の者にしては良い態度ですこと」
「けれども、外出されるのはお控えください」
「何よ。田舎者って馬鹿にされて臍を曲げたわけ? 狭量ね」
「今の田舎者と馬鹿にしていたんですか?」
 しれっと山背が聞き返すと、能登殿は釈明の代わりにそっぽを向いた。
 能登殿は当初の印象よりは頑なではなかった。自衛の為に、元来の性格以上に攻撃的になっている部分もあるのであろう。
「わたくし、何をするわけでもないのに、もうずっと西宮にいるのよ。外に出れないのなら、軟禁と変わりないでしょ。耶雲にそんな権限はないわ」
「けれど、耶雲はあなた様に対する責任を負うのですよ。帝の御妹君にもしものことがあれば、耶雲の立場はどうなります」
「じゃああんたは、耶雲の人間が平和に暮らす為に、わたくし一人に罪人のように過ごせと言うのね?」
 そう言われると、言葉に詰まる。
 間違ってはいないが、そうもあからさまにまとめられると、どう返答して良いものか。
「それともなぁに? 耶雲は護衛を連れても危ないほど治安が悪いの?」
「そういうわけではございませんが」
「じゃあ良いじゃない」
 山背は辟易して黙り込んだ。
 煤屋とのやり取りでもそうだったが、山背は元来淡白な性質である。そう言えば聞こえは良いが、つまりは粘り強くない。
 長丁場になりそうな場合、相手と話し合うことが面倒になって、折れるか逃げ出すかが常である。
 密かにため息をついた山背は、能登殿の説得に対して思う所がないわけではなかった。いかに豪華な物に囲まれていても、一歩も外から出られないというのなら、確かに軟禁と変わりない。
 山背が同じ立場になれと言われれば発狂する自信がある。
「それでは能登殿、一つ条件がございます」
「なぁに?」
 思いの外、自分の護衛の説得が簡単に済んだ能登は、目を輝かせた。


 能登殿は都人らしく、唯の団子を美しい所作で間食した後、串を山背に差し出した。
「なんです、これ」
「馬鹿ねぇ、捨てろってことよ。口に出さないと分からない?」
「察してもらわないと伝えられないのですか?」
「口に出さないと分からない山背。捨ててきて」
「察してもらわないと伝えられない能登殿。お断りします」
 串はぽこんと山背の方へ投げ捨てられた。なんという我儘娘だろうか。
 能登殿の装いは、先程上機嫌に見せびらかしていた着物ではなく、山背が用意したものだった。流石に麻の衣とまではいかないが、身分が分かるような高貴な服装はさせられない。
 今の能登殿は一見すると少し裕福な庶民の娘と言ったところだろうか。
 豊かな烏の濡羽色に光る能登殿の髪は、今は笠の中に納められている。能登殿は彼女の言葉を借りれば大いに洗練されていない格好に、初めは激しく抗議した。
 だが、その一点だけは譲れないと頑として肯じなかったところ、今度は能登殿が折れた次第である。
 木陰で目を細めて涼んでいる能登殿を横目に見て、山背は笑った。
「楽しいですか?」
「西宮に閉じこもっているよりかは、とてもね」
「なら」
 良かったですね、と口に出すと能登殿は年相応に笑った。
 仕事中なので、流石に能登殿と同じとまではいかなかったが、それでも山背はこういうことが好きである。暑い日には木陰で涼をとり、寒い日には温石で暖をとりたい。心地よい所でのんびりするのが好きなのである。
 腹がくちてうとうとしてきた能登殿をぼんやりと見ていたその時である。

「あなた、不思議だなぁ」

 第三者の声だった。
 山背は素早く立ち上がると、庇うように能登殿の前に出た。
 声の主は若い男だった。自分で話しかけておきながら、はて、と首を傾げて顎に手を当てている。
 その装いは一風変わっている。勤め人のようには見えなかったが、庶民のようにも見えない。貴人のようであると言えばそうなのだが、特に豪奢な感じはしなかった。
 これは多分、法師と言う奴だろう。耶雲には馴染みのない存在だった。能登殿は怯えたように、山背の着物を握った。
 法師は、山背を、厳密にはその後ろの能登殿を指さした。
「あなた、本当に人間ですか?」

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