7話(田中)

 能登は続けて語り出した。
 直系の子がいない帝の後継に目されているたの五名。元々は能登の兄ではなく、父が跡目の一人だった。
 今は口が思うように動かない、食べ物も上手く咀嚼できないという有様である。数年前に高熱にかかってそれ以来、顔面が麻痺してしまったのだ。完全に閉まらぬ口で何とか意思疎通ができるものの、天下を統べるには相応しくない。そういう意理由で跡目争いからは脱落させられた。
 これが残り四人のうちの誰かが毒を盛ったことは、火を見るより明らかだった。
 だが、誰も何もできなかった。五人はそれなりに均衡を保っていたが、能登の家はその中では力が弱かった。母の家は元は耶雲に端を発する名家だったが、財力があるわけではない。後ろ盾と呼べる有力な貴族もいなかった。
泣き寝入りするより他はなかった。家長の変わり果てた姿に家人たちは泣き崩れた。
 兄だけは違っていた。
 一滴も涙を出さぬ代わりに、兄は必死に耐えていた。肩を震わせ、泣くまいと耐えているのかと能登は思った。一緒に悲しみを分かち合おうと、兄の悲しみを少しでも受け取ろうとした能登は、すぐに己の勘違いに気が付いた。
 兄は歯を食いしばって、唇を噛みしめていた。身の内の怒りを必死に耐えているのだ。
 気づいて、能登はまた泣いた。どうして温厚な兄が豹変しなければならぬ。どうしてこんな非道な振る舞いが出来るのか。
 父が帝に相応しくないというのなら、他の人間たちはどうなのだ。能登の大切な人をここまでにした者は帝に相応しいとでもいうのか。
 絶対に認められない。こんなことは間違っている。正さなければならない。誰でも良いから、正してほしい。
 兄が父の代わりに候補になるというのなら、兄が帝になってこの間違った道を正してほしい。こんなことは間違っているのだ――。
 幼いながらに使命感にも似た思いが能登を動かしていた。その結果が、能登の神隠しの顛末である。


 しばしの沈黙が二人を包んだ。
 能登は一人で抱えていた秘密を告白し、複雑だが胸が軽くなったようだった。泣いて体力を使ったのだろう。砂が散っている物見やぐらの床にぺたりと腰を付けた。
 山背は漸く口を開いた。
「どうやってお亡くなりになったのですか」
「どう……?」
「他の候補者の方々です。事故とは?」
「それは、色々よ。建造物の下敷きになったり、山に物見に行ったら足を滑らせてしまったり」
 能登は何故山背がそんなことを気にするのか分からずに戸惑っているようだった。肝心なのは能登が重大な過ちを犯してしまったということだ。人外と約束を交わし、払えぬ対価を踏み倒している。その告白である。
 山背は指を手に当てたまま、何かを考えると、能登と目を合わせた。
「それでは、山護ではなく人間が手を下した可能性がありはすまいか」
「なにそれ。わたくしが狂言を言っていると言うの?」
「そうは申しません」
「現にわたくしは数刻豊武にいただけにも関わらず、半年が経っていたのよ」
「そこは疑いようもありません。能登殿だけではなく、周囲の方々も同じ認識のご様子ですし」
「……どういうこと」
「兄君や兄君の縁者が候補者たちを不慮の事故に見せかけて殺めた可能性はありますまいか」
「なんですって」
「だって、兄君だって他の候補者の方々に命を狙われたのでしょう。失礼ながら、お父君も」
「そうだけれど、わたくしは知らないわ」
「俺も真実はどうか知りません。今上にこのようなことを口に出すだけでも罪なのかも。でも、ですよ。もしそうだとしたら、能登殿の事情は少し変わってきませんか? だからこそ、そうであれ違うのであれ、丁寧に確認する必要があります」


 帰りは散々だった。涙の痕をありありとつけた幼い少女の顔と、彼女の汚れた足元とを交互に見た女官は、山背に今にも掴みかかろうとする剣幕で詰め寄り、説明を求めた。
 山背はあらかじめ用意しておいた言い訳を披露した。耶雲を見渡してもらうために物見台にお連れしたこと。悪路だったことを失念していたこと。配慮が行き届かず、能登殿が転倒するのを防げなかったこと。
 嘘は真実も織り交ぜて小出しにした方が良い。不自然にならない様に会話のうちに織り交ぜると、女官は山背の作ったことの次第を理解したようだった。
 それでも、納得が出来ずに、お前がついているから信用したのにと言葉の端々に棘を含ませて山背のふがいなさを責めた。女官の反応は大げさではない。能登殿に何かあれば山背だけではなく、関わった全員の首が飛ぶ。
やはり能登様の外出は、と女官が言いかけたところでようやく能登殿が口を開いた。
「ごちゃごちゃうるさいわね。わたくしを心配するのなら、さっさと湯を用意おし」
 通常通りの能登殿である。幼い内親王を放置して山背を責めていたことに気が付いた女官は、慌てて謝罪すると奥へと向かおうとする。その手を、今度は山背が握った。
 防人に触れられるとは思っていなかった女官は、声を荒げ殆ど反射的に山背の顔を叩いた。山背は構わずに女官の手を引いた。
「誰彼構わず人を呼べば、能登殿に要らぬ噂が立つでしょう。申し訳ございませんが、これはあなた一人でやってください」
「わたしが一人で? どうしてあなたの尻拭いを私が一人で背負うのよ」
「その通りですが、能登殿を外聞から守るのはあなたの責任でもあるでしょう」
 憎々し気に山背を睨みつけた女官は、それでも言っていることは山背に分があると判断したのだろう。首を小さく縦に振ると、その八つ当たりをするように山背を粗雑な態度で外に出し、一人で湯を用意しに行った。
 それから、暫く暇をつぶして西宮を訪れると少し前までは街の娘のようだった能登は、元々の内親王に戻っていた。顔も、髪もさっぱりしている。
 一方山背の髪は夏の強い日に当たっていたおかげで、まだ荒れていた。汗臭くないか心配だったが、能登が手招きをするので部屋に入る。
「――今日は楽しかったわ」
「それは良かったです」
「ええ。また連れて行ってくれる?」
「能登殿が女官と仲良くなれば、二回目も容易くあるでしょう」
「どうしてよ」
 能登は頬を膨らました。稲穂比古に気を使い、その家族に気を使い――その上さらに身の回りを世話をする女官にまで気を使えと言うのか。
 言わんとすることは分かるので、山背は苦笑した。
「気を使うことと仲良くなることは別です」
「どう違うのよ」
「さぁて」
 山背は顎に手を当てた。
「身の回りの者を味方につけておくと、能登殿の外出はもっと簡単になるでしょうね。能登殿も分かっているから稲穂比古様に猫を被っていたんでしょう」
「稲穂比古殿は母上の親類でもあるもの。それに、これから滞在する地の長よ。類も分からない女官と一緒にしないで」
「そんな言い方をすると態度に出ますよ。肝心なのは、彼女たちを味方につけておくと能登殿が過ごしやすくなるということでしょうに」
 そうかもしれないけれど、と能登殿は口籠った。これ以上の反論は思いつかなかったらしい。
 暫くして、能登は言いづらそうに口を開く。
「ねぇ、山背。今日話したことだけれど――」
 その時だった。先ぶれがやって来た。
 やって来る貴人の名は、稲穂比古である。


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