5話(田中)

 能登はぽつりぽつりと語り出した。一番いい景色は御所の裏手側にある高台で、だけど訪れることが出来る人は限られていること。誓筮京からは海が遠いので、川魚のなれ寿司が好まれていること。土産物は分からないが、都のものは何でも優れているので、全てのものは土産になるのではないかということ。
 誠に都人らしい回答を織り交ぜつつ、山背の質問に一つ一つ律義に答えていた能登は、次第に興が乗ったのか、誓筮京のことを言葉豊かに語り出した。
 豊武の山々に囲まれ、数多の山護から加護を受けた明日花亥の平野。春夏秋冬、色鮮やかな顔を見せる帝のおわす聖都。貴族や庶民に至るまで、多くの人がひしめき合っていて、忙しなく自らの役割に没頭している。
 能登の父は傍流の皇子ではあるが参内していて、執政に携わっていた。細君は能登の母一人だけだったので、能登には異母兄弟はいない。
 同母の兄は同じ屋敷でも別の棟に住んでいたが、豊武で狩った獲物を携えてよく会いに来てくれた。母は生臭物(なまぐさもの)が苦手だったが、能登は大好物だったので、兄とはしゃぎ合っては良く食事を共にした。

「お前に兄弟はいる?」
「はい。上に二人、下に二人」
「へぇ、どうもお前が長男でも末っ子でもなさそうなわけに、合点がいったわ」
「能登殿は如何にも末っ子って感じがしますよ」
 能登はぽかりと山背の肩を殴った。大げさな動作だったが、心なしか覇気がなかった。ぽん、ぽんと能登はからくり人形のように、同じ動作で山背の肩を殴りつけた。次第に背中が丸くなり、肩を震わせる。
「泣いてるんですか?」
「お前、絶対にモテないでしょ」
 能登はがばりと顔を上げて失礼極まりないことを断言した。目に涙がたまっているし、鼻水も出かかっている。年頃の娘とは思えない酷い顔だった。
 能登殿の方が、と口に出す程山背は愚かではない。目が合うと、それが合図になって能登は声を出して泣いた。
 豪快な泣き方だった。
 もう何もかもが嫌でたまらないが、言葉で訴えることも出来ないので、全身全霊で感情を発露させている。そういう泣き方である。
「あんただって、仕事だからわたくしに付き合ってるんじゃない。懐柔できたと思ったら大間違いよ」
 なんとも小憎らしいことを言う。誰の為にこの物見台にやって来たというのだろう。能登は、今度ばかりは強かに山背を殴りつけた。言いがかりも甚だしいが、こういう時は反論しないに限る。山背は黙って殴られ続けた。
 能登は殴りながら泣き、泣きながら殴った。時々、両親や兄をうわ言のように呼んでいる。もしかしたら、この少女は寂しいのかもしれないと山背はその時初めて思い至った。
 周囲の顔色を伺って話を合わせる少女。癇癪をもって人に当たり散らす少女。彼女が気を使うことに良い顔をする者はいても、或いは彼女の怒りに眉を顰める者はいても、彼女を掛値なしに心配する者はいなかった。この耶雲の地に能登の身内は誰もいない。狩りの獲物を携えてくるものはいないのだ。
 ひとしきり泣き終えて、能登は山背に更なる文句を言い始めた。
 お前は最初から嫌がっていただろう。迷惑がっていることがありありと分かっていた云々。
 山背は一息ついて、能登の肩を抱いた。

「確かに、山背はお勤めで能登殿の傍にいます。兄君のようになんの理由もなしに傍にいるわけではありません。そうできる身分にもいません」

 ぐすり、と能登は鼻をすすりながら、初めて山背と目を合わせた。山背が携えていた懐布を差し出すと、能登は音を立てて鼻をかんだ。
 早く冷やさないと目が腫れはすまいか。能登は大きな目をしているから、目立つに違いない。能登は小さな肩を振るわせてしゃくりあげている。
 山背はこほん、と咳ばらいを一つした。こういう時は、うまく言えなくても自分自身の言葉でなければ相手には響かない。
「ここ、良い場所でしょう。俺のお気に入りの場所の一つです」
 当たりを見渡す。足場も悪いし、物見台ももう古い。人々から半分忘れられた場所である。山背が能登を連れて、二人でここまで歩いてきたのだ。
「多分、二日前だったら能登殿を連れてこようとは思わなかったんじゃないかな。一人で行った方が早いし、楽だし」
「足手まといで悪かったわね」
「そうです。能登殿は足手まといです。でも――」
 でも、連れてきたいと思ったんですよ。山背が続けると、能登は山背が言わんとすることを察したように俯いた。決まりが悪くて山背と目を合わせようとはしない。山背はやんわりと能登の手を取った。
「良いじゃないですか。俺は職務で能登殿と一緒にいるけど、三日分能登殿と近くなってるはずです。いつか能登殿と別れる日が来たら、俺はそれなりに寂しくなりますよ」
 能登は遷都したら帰都する。最初から終わりのある関係である。その間は温厚な関係を築いていきたい。山背は主の為になることをしたいし、能登殿には信用して欲しいのである。
 職務中円満に過ごしたい打算が働いていないと言えば嘘になるが、山背自身この寂しい少女に感じ入るところが無いわけではなった。
 能登は予想に反して疲れたように笑った。諦めたような、何かを我慢してるような、内実がつかみ取れない笑いである。
「わたくしは本当に帰ることができるかしら」
「どういう意味ですか?」
「わたくしはね、豊武の山護に追われているの」
 兄上を帝にさせる。わたくしは豊武の山護の元へ行く。
 力なく、能登殿は呟いた。

「約束を違えているのは、わたくしの方なの。わたくしは耶雲に逃げてきたのよ」
「約束?」
「――耶雲の神話は、天から降りてきた神が、この地の大蛇を倒したことから始まるわね」
 能登はすっくと立ちあがると、眼前に広がる八俣の河口を指さした。
 芝居がかったようにぴんと伸ばした指先。神楽を踊る巫女のような所作だった。
「耶雲の大蛇は元々この地の山護よ。天の神が地の神を殺めて新たな山護に納まった。ここは神殺しの地でもあるの。だからわたくしは耶雲に逃げてきたの。山護に打ち勝ったことのあるこの耶雲の地に」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?