4話(透)

 山背にしがみついた、能登の体がぎくりと揺れる。念の為、腰に帯びてきた剣の柄に手を置き、ちらと能登の顔を覗き込めば、珠の様な肌はすっかり蒼白になっていた。
「豊武の山から、わたくしを追ってきたの……?」
 怯えきったその言葉に、山背は小さく息を呑む。
──豊武の山護様に愛されるあまり、能登様が子供の頃、神隠しにあったって。
──神隠しだなんて、内親王としては箔がつくのかしらね。
 女官達の話していた、例の噂を思い出す。嘘か真実か判断もつかぬ、取るに足らぬ井戸端会議。だが、──
「おやおや、怯えさせちまったらしい。こいつぁ失礼いたしました。あなたがどうも不思議な色をまとっているんで、ついつい気になっちまいましてね。私は真嘉(まか)。しがない旅の法師でございます」
 手にした杖をとんと突き、法師が穏やかな声音でそう告げる。そのまま能登に歩み寄ろうとするのを、山背は身振りで制止した。
 真嘉と名乗ったこの男が何者なのか知れないが、能登が恐怖を感じているらしいことだけは確かであった。先程まであれほど横柄にくつろいでいた彼女が、今では背を縮こまらせて、山背の影にじっと隠れている。
 豊武から追ってきたのかと、能登は法師にそう問うた。豊武の山。数多の山護が棲まうという、誓筮京を護る霊山──。
 事の次第は知れないが、今この場で山背の為すべきことは、ひとつである。
「連れの気分が優れないようですので、失礼させていただきます。真嘉殿、旅のご無事をお祈り申し上げます」
 一方的にそう告げて、能登の肩をとんと叩く。怯えずとも大丈夫だと、そう伝えたつもりであった。能登にも通ずるところがあったのか、彼女は山背の衣を握りしめていた力を幾らか緩め、一瞬真嘉を睨みつけると、不機嫌そうに顔を背けてみせた。
「行くわよ、山背」
 能登に手を引かれ、周囲に気を配りながら、山背も真嘉に背を向ける。追いすがるように、「ああ、おい、待ってくれよ」と声をかけたのは真嘉だ。立ち止まった山背が、顔だけを向けて振り返ると、真嘉は己の身につけた首飾り──勾玉を繋いだそれから、ひとつ外して投げてよこした。
「あなた方、どうやら厄介事に巻き込まれそうな相が出てる。いや、お嬢さんの方は、既に渦中にあるようだ。まあ、それはちょっとした、お守りのようなもんだと思ってくだせえ。有事の際には、及ばずながらお力になりますよ」
 山背が勾玉を受け取ったことだけ見届けると、真嘉はひょいと身を翻し、さっさと去っていってしまう。山背の手に渡った勾玉は、真夏の日の光を受け、琥珀色に輝いている。
 真嘉が去った後にはただ、山背と、不機嫌の権化となった能登だけが取り残されたのであった。
 
「能登殿。……おーい……、能登殿」
 大手を振り、つかつかと歩いていってしまう能登の後を、一定の距離を保ってついて行く。
 耶雲の誇る広大な稲田の畦道を渡る能登は、あれきり一言も発さない。ただ肩を怒らせて歩いては、時たま足を止め、背後に山背の姿があるか確認する。どうやら酷く怒っている。怒っているというより、怯えていると言ったほうが正しいか。だが山背には、その宥め方がわからない。
 山背にとってせめてもの救いは、能登がただまっすぐに、耶雲の城へ向かっていることであった。あれほど外へ出たがっていたのに、今では帰りたくて仕方がないとでもいったふうであるのだ。だが──、
 耶雲の城まであと少し、というところで、能登はぴたりと足を止めた。今度ばかりは振り返らず、山背がすぐ隣へ追いついても、距離をとろうともしない。
「鬼ごっこはおしまいですか?」
 からかうような口調で言ってみても、能登からの反応はない。しょげている。その姿を見て思い出したのは、妹の姿であった。上の兄弟と喧嘩をした後の妹は、よくこうして、家に帰るのを嫌がった。だがそれが、能登の姿と重なるのは何故であろう。耶雲の城に、能登をなじる者などいないはずだ。
(いや、……)
 物陰に隠れ、鬱憤を晴らしあっていた女官達のやりとりを思い出す。面と向かってなじられることはなくとも、彼女らの苛立ちを感じ取った能登が、居心地の悪さを覚えていてもおかしくはない。それがそもそも、能登の我儘に端を発するものであっても。
 山背は小さく息をつき、顎に手を当てしばし考えてから、思いついてこう言った。
「能登殿。耶雲をご覧に入れましょう」
「はあ?」
 煩わしげではあるものの、ようやく能登が反応を見せた。にやりと笑んだ山背が、能登を置いて歩きだすと、能登も慌ててついてくる。
「耶雲の地名は、古くは八つの雲と書いたそうです。神話の御代に八俣の大蛇が倒され川となり、耶雲の土地を豊かに実らせてきました」
 「知ってるわ。何度も聞いたもの」と口をとがらす能登は、それでも素直に山背の後へついてくる。耶雲の城から脇に逸れ、足場の悪い高台へ向かう。こんな悪路は歩いたことがないのであろう。たじろぐ能登に手を差し伸べ、いつか散歩の際に見つけた、古い物見台へといざなってゆく。
「ちょっと、こんなところへ入って大丈夫なの? 獣でも出たら」
「山背はそれなりに足が速いので、能登殿の一人や二人、抱えて逃げられます」
「あんたみたいなぽやんとした奴、ちっとも頼りにならないわ」
「では獣に襲われたら、能登殿を見捨てて逃げましょうかね」
 背をぽかりと殴られた。痛くも痒くもない。
 
 遺棄された物見台に着く頃には、ふたりとも汗をかいていた。真夏の昼日中のことである。しかし見晴らしの良い物見台には、気持ちのいい風が流れていた。
 拓けた眼下に見えるのは、八俣の川と城、田畑、そして広大な海である。
 能登は黙って、その風景を見据えていた。感動した様子ではない。きゅっと奥歯を噛みしめるように、頑なに口を閉ざしている。
「近くに湧き水がありますよ。喉が渇いたでしょう」
 山背がそう声をかけても、聞こえているやらいないやら、能登は眼下の景色を睨みつけたまま答えない。そっとしておくのがいいだろうかと考えて、山背が冷たい湧き水に手を延べた、その時。
「わたくしに、聞きたいことがあるんでしょう」
 どこかで聞いた問いかけに、浅く振り返る。
「だから、こんなところへ連れてきたんでしょう」
 「ああー……」と曖昧にいらえて、山背はぽりぽりと己の顎を掻く。
「そうでした。ご質問をしなくては」
「でしょうね。聞きたいことは大体察しがつくわ。おおかたさっきの法師が言った、──」
「誓筮京で、一番景色のいいところはどこですか?」
 山背が問えば、能登は一拍置いてから、無言でこちらを振り返る。
「いや、お待ち下さい。ちゃんと考えては来たのです。ええと、そう。誓筮京のお勧めの食べ物と、土産物と、ああ、あとあれだ。木とか花とか、そういうものは、こちらと違いがあるのかとか……」
 元々大きな目を更に見開いた能登が、じっと山背のことを見ている。
「それ、本当に知りたいの?」
「能登殿は聞かせたいのでしょう」

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