1話(田中)

 能登(のと)殿が耶雲(やくも)の地にやって来たのは、むせかえる様に暑い夏の日のことだった。
 輿から不機嫌そうに降りてきた能登殿は、出迎えた国守とその家族たちに、これからの軋轢や不和を予想させ、不安を過ぎらせたものの、汗を拭って一呼吸置くと、何かを切り替えたように人懐こい笑みを見せた。

「始めまして。能登と申します。歴史ある耶雲の地に足を踏めたことを大層光栄に思います。皆さま、どうぞ能登のことを妹だと思ってよろしくご指導お願いいたしますわ」



 耶雲は古くは八雲と書く。
 八が意味するところは、耶雲に流れる八つの川である。神話の御代に八俣の大蛇が倒されて川になったことが由来があり、川からもたらされる水は古くから耶雲の人々に豊かな作物を届けてくれた。
 海の近くに君臨する城から国を一望すると、河口部分が綺麗に八俣に分かれている様が見える。その雄大さは確かに古代の人間にとっては大蛇を連想させたのかもしれなかった。山背(やましろ)は勤め先の眺めが好きだった。
海が近いからか、城にはいつも風が吹きすさぶ。それがなんとも気持ち良い。
 職業柄武芸を身に着けている山背であったが、根がのんびりした性格で、走り込んで汗をかく爽快さよりも、こうして季節を感じながらしみじみする心地よさの方が好きだった。
 山背の勤めは防人としてこの耶雲国守、稲穂比古(いなほひこ)様の身辺の警護をすることだ。稲穂比古様は齢三十になられたばかりで、国守としては年若い方だったが、勤勉で周囲の人間にも分け隔てなく優しい。給金も悪くないし、実家にも十分な仕送りが出来た。

「俺が、能登殿のお付きになるんですか?」
「そうだ。お前は年も近いし、防人の中では一番最適だろう」
「年が近い方が良いのですか?」
「能登殿は誓筮京からたった一人で来られたのだ。まだ幼い少女であらせられる。年の離れた大人ばかりが傍にいては心細かろうて」
「そんなの、俺で寂しさが和らぐとは思いません。それなら年の近い少女の方がよくありますまいか」
「食いつく奴だな。人事に口を出す権利は勤め人のお前にはない」

 上役の煤屋(すすや)は、はぐらかすように、そういえば妹御は元気かと尋ねた。
 妹は元気に町のガキ大将になっているし、弟は元気に泣き虫に育っている。山背が律義に返答すると、煤屋は神妙に元気が良いことは良いことだと中身のない返事をした。この会話を早く終わらせたがっているのは火を見るより明らかであった。
 辟易した山背は、諦めて引き下がった。
 能登殿と言えば、先日誓筮京からこの地へやってこられた薫光帝の同母妹、つまり内親王である。神話の頃より栄えてきた耶雲の人間は天下の誓筮京を田舎者の新都だと小馬鹿にするところであったが、帝の一族とあっては疎かに出来なかった。
 山背も稲穂比古様とその奥方一行と共に、能登様を出迎えた一人である。
 能登様は明るく振舞っておいでだったように見える。食べ物や自然、歴史など耶雲に対して興味がおありで、会話の端々に散りばめられた若い好奇心は耶雲の人間たちの自尊心を大いに満足させたようだった。
 都からやって来る傲慢な姫を想定して構えていた耶雲の人たちは大いに安心して能登殿を歓迎した。
 ――はずだった。
 極めて懐疑的な気持ちで、山背は能登殿の住まう西宮へと足を運んだ。女官とすれ違った。いつもは立ち振る舞いに隙がない彼女たちが、今日はどこか疲れている。何となく、察しがついて山背は足取りが重くなった。


「あんたがわたくしの新しい付き人?」
 あの時の人懐こい笑みはどこへ行ったのか、能登は小馬鹿にするように山背を一瞥した。この表情には覚えがあった。
 ガキ大将である妹が、子分たちによくする威圧だった。山背が里帰りする度に、子分の男の子たちが奮えあがって妹に揉み手をしていたのをよく覚えている。
 それでいて、妹は大人の前では要領よく淑やかに振舞っていた。
 年若い同性でもなく山背が選ばれた理由が何となく掴めてきた。能登はつかつかと歩みを進めると、山背の脛を思い切り蹴り飛ばした。
 痛い。涙が出てくるほど痛かった。
 喧嘩は先手必勝である。何故能登が喧嘩の心得を知っているのか知らなかったが、唸ったところで何も変わらなかった。
 トロい奴、と能登は高貴な少女とは思えない暴言を山背に吐き捨て、見上げているにも関わらず、見下げるような表情を作って、山背に指を向けた。

「わたくしはこんな田舎者たちとは慣れ合わないわよ。遷都が終わったら早々にこんなド田舎から去ってやるんだから」


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