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【アナウンサーが語る福岡野球史】2

10年の球団不在からまさかの王監督誕生!そして歓喜へ
【福岡在住アナウンサーが語る「博多球団今昔物語」(後編)】1978年秋。福岡野球株式会社(スポンサーはクラウンライター)の西武への身売りが発表された。その後10年の「球団不在期間」ののち福岡ダイエーの誕生、そして福岡ソフトバンクの黄金期へと、時代は変遷する。


インタビュー・文/高橋泰源

雌伏の10年間、そして福岡ダイエーホークス誕生
――ライオンズが埼玉に移転し福岡から球団がなくなったことで、当然ながら野球実況の仕事も激減しました。

渡辺 そうですね。実況しようにも試合がないんですから。このタイミングで東京に行った野球関係者も大勢いました。実は自分もこの時、RKBを辞めてフリーアナウンサーになることも真剣に考えました。東京に行けば沢山の試合を実況できると思ったし。ただ、妻と娘のことも考えて、最終的には独立を思いとどまりました。

――このあと約10年間、福岡にプロ野球チームがない時代がありました。

渡辺 寂しかったですね。RKB全体を見ても実況の回数がアナひとりあたり年間3試合程度、配置転換で若手を歌謡曲担当に回したり。それでいて、遠い先の実況の仕事に備えてデータの整理は毎日続けなくてはならない。本当にしんどかった。この頃、ロッテが福岡に来るのではという情報もありました。84年に稲尾さんがロッテの監督を引き受ける際の条件が福岡への球団移転だったらしいですが、結局その約束は果たされなかったですね。かなり期待していただけにショックでした。

――その間、82年、83年には西武が2年連続日本一になっています。特に83年は東尾がシーズンの、大田が日本シリーズのMVPを獲りました。西武に対する思いは。

渡辺 うーん、まあ、どこを応援するかと言ったら、西武を応援してましたよ。83年なんかはシリーズで巨人を倒した広岡(達郎)監督の采配に快哉を叫んでました。

――そして91年、待ちに待った福岡ダイエーホークスがやってきました。

渡辺 福岡空港へのチャーター便で杉浦(忠)監督を先頭にダイエーがやってきました。当時ダイエーはまだ一流会社。格好良かったね。ホークスはかつての西鉄の仇敵ですが、気持ちを切り替えてホークスを応援しました。

――ただ、杉浦さん、田淵(幸一)さん、根本(陸夫)さんと監督が代わり、観客はそこそこ入るけど成績は・・・という時代が続きます。そして92年を最後に平和台球場から福岡ドーム(現:ヤフオクドーム)に本拠地が移転しました。

渡辺 92年10月1日、平和台球場のラストゲーム、ダイエー対近鉄戦のナイターでした。若田部(健一)と野茂(英雄)の投げ合いでしたね。試合の実況ではなく、ヘリコプターに乗って上空から球場を含む博多の夜景を中継しました。福岡のローカルニュース、TBS系の全国ニュースで流れました。高所恐怖症だったので、ヘリに乗ったのはそれが最初で最後(笑)。博多湾に流れる室見川とか、博多の夜景は本当にきれいでした。球場の上空からはそれなりに試合の様子もわかって、「スコアボードにK(三振)の青い文字が光っています」と放送した覚えがあります。



福岡ドーム完成、王監督誕生
――93年から本拠地となった福岡ドームはいかがでしたか。

渡辺 感激の一言。もう何もかもきれいで新しくて、球場内のあらゆるものを触って歩きました(笑)。こんな大きなハコを作るなんて、人間の叡智とは際限のないものなんだなあと。野球好きで知られる正岡子規や夏目漱石をタイムマシンに乗せて連れてきて、この光景を見せてやりたいと思いました。実況は最初は多少戸惑いましたが、すぐに慣れました。

――ドーム3年目、95年からはいよいよ王(貞治)さんが監督になりました。驚きました。

渡辺 うん。なにしろ世界の王さんですからね。福岡に来るとか、巨人以外のユニフォームを着るとか、まったく思わなかった。ただ、根本さんが妙に自信ありげだった。彼は監督としてはともかく(笑)、チーム作りの才能には長けてましたね。やるといったことは本当にやる人だった。

――その95年にRKBを退職されました。

渡辺 定年の数か月前に退職しました。退職したら実況の仕事は引退して、小さな事務所を開き、後輩アナウンサーの育成・指導に専念しようかと思っていたのですが、ダイエー球団からホークス戦の実況を続けてくれと強くお願いしていただきました。しかも中内オーナー、創業者から直々に(笑)。さすがに断るわけにはいかないので、フリーアナウンサーとしてホークス戦の実況の仕事を続けることにしました。で、いざフリーになってみたら、6連戦を6日続けて実況するとか、局アナ時代より体力的にはよほどしんどくなった。ただ待遇面など、ダイエーには本当によくしてもらいましたよ。自分の人生の中で、ダイエーとの巡り合いが本当に大きかった。
そして36年ぶりの歓喜
――戦力も徐々に整い王監督の采配も安定し、98年にはAクラス入り。そして99年。福岡ダイエーホークス、初優勝。地元福岡ドームで日本ハムに5対4。胴上げ投手はペドラザ、王監督が宙に舞いました。36年ぶりの歓喜でした。

渡辺 実況しましたね。もう話しながらどんどん涙があふれてきた。入社直後の63年西鉄以来の地元チーム優勝ですからね。嬉しいというより、「こんなことがあるんだなあ」と、不思議な感覚に襲われました。ある先輩が言っていた「一生懸命やっていれば、いつか運は向いてくる」という言葉を思い出しました。

――ビールかけにも参加されたとか。

渡辺 正確にはビールじゃない。親会社がスーパーですから、世論を考慮して、炭酸水の「優勝水」をかけあいました。祝勝会の司会をしましたね。王監督の挨拶、続いて浜名(千広)選手会長の挨拶です、という掛け声まで担当しました。選手たちはウインドブレーカーに着替えたんだけど、私は背広しか持っていなかった。おかげで優勝水をかけられて背広一着無駄にしました(笑)。嬉しい出費でしたけど。

――博多のファンも熱狂しました。

渡辺 まさかの優勝ですからね。ドームのみならず、天神の広場に若者が大勢集まって大声上げて、優勝したら那珂川に大勢飛び込んで。溺死者が出るんじゃないかと心配しました。街全体が盛り上がったのがなにより嬉しかった。

――翌年、2000年には台湾での公式戦(対オリックス)が行われました。

渡辺 同行して2試合実況しました。もうとにかく王監督が台湾では神様扱い。試合前に取材をしていたら周囲から刺すような視線。それを見ていた関係者が「あなた、今夜は外へ出るな」と。「神様と普通に話しているなんて許せない」と、一般の人からやっかまれて何かされるかもしれないから、とのことでした。


東尾こそプロフェッショナル
――2008年で実況を終えました。

渡辺 親会社がソフトバンクに代わったのを契機にマイクを置きました。王さんが監督をやっている間は、という気持ちもありましたが、70歳を超えましたし、さすがに、そろそろ妻とゆっくり過ごそうかと。

――ずっとプロ野球をご覧になってきて、「これぞプロフェッショナル」と呼べる選手をひとりだけ挙げていただくなら。

渡辺 文句なく東尾ですね。バッティングもよかったので入団時は野手に転向する予定だったのですが、黒い霧事件による投手陣崩壊のあおりを受けて投手としてやっていくことになったはずです。西鉄末期、太平洋、クラウン、西武初期と、現役生活20年間のうち最初の13年間は弱いチームに居ましたが、エースとしていかなるときもプライドを持っていた。自分よりもチームのために、常に体を投げ出していました。251という勝ち数以上に、247という負けの数が、彼の勲章だと思います。

――一番近くで50年以上、福岡のチームを見守ってきて、今どのようなことを思っておられますか。

渡辺 どん底も見たし、天国も見た。山あり谷あり、ですが、20代と60代で優勝を実況でき、祝勝会にも参加できた。「本当に、こんなことあるんだなあ」と。この上ない幸せな実況人生だったと思います。


御年81歳。アナウンサー時代と変わらぬ、まったく年齢を感じさせない張りのある声で、渡辺氏はよどみなく往時を振り返った。近年はカラオケの大会にも参加され、自慢のノドを披露しているという。人に歴史あり、というが、氏のアナウンサーとしての歴史はそのまま、福岡の球団の歴史だと、改めて思う。入社3年目、20代にして地元チームの優勝を経験し、その後36年を経て60代になってから、再度の歓喜の瞬間に立ち会うという僥倖。福岡から球団がなくなった時に東京に行っていたら、こんな感動は味わえなかったよね、と、氏はさわやかに笑った。

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