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【アナウンサーが語る福岡野球史】1


*本記事は、かつて存在していた野球情報サイト用に筆者が取材、原稿執筆したものですが、当該サイトの閉鎖に伴い、筆者の備忘として公開いたします。



【福岡在住アナウンサーが語る「博多球団今昔物語」(前編)】西鉄黄金時代から黒い霧事件による主力選手の流出を経て弱体化した太平洋、クラウンの試合を、地元のラジオ局は負けても負けても中継し続けた。西鉄当時からの実況アナ、渡辺篤氏に思い出を聞いた。 インタビュー・文/高橋泰源



入社3年目に西鉄最後の優勝を経験
――ご出身は福岡ではないとお聞きしました。

渡辺 東京の世田谷区です。明大在学中に野球やラグビーなどのスポーツ実況をするアナウンサーを志しましたが、昔から巨人が嫌いだったので(笑)地方局を志望しました。1961年にRKB毎日放送に入社、翌62年5月、平和台の西鉄-東京戦でラジオの初実況をしました。稲尾(和久)と小山(正明)の投げ合いでした。

――翌63年は西鉄が最後に優勝した年ですね。首位南海との14.5差をひっくり返しての大逆転。

渡辺 そうですね。99年のダイエーホークス初優勝の36年前です。この年はシーズン途中で優勝が望み薄となった時点で稲尾が肩痛で戦線離脱し、別府で電気治療をしていたんですが、逆転の目が出てきたことで球団があわてて彼を呼び戻したはずです。優勝決定の試合は近鉄とのダブルヘッダーだったので実況席も大忙しでした。博多の街も盛り上がりましたよ。

――甲子園の高校野球の取材、実況もされたとか。

渡辺 そうですね。放送局の系列の関係で夏の選手権よりも春のセンバツのほうが仕事が多かった。後にライオンズ入りした池永正明(下関商)、楠城徹(小倉)などは高校時代から知っています。

――65年にはその池永が入団します。

渡辺 そうです。新人で即20勝しました。ただ球速は与田(順欣)のほうが速かった。時速150キロ近く出ていたと思う。池永は、与田が隣で投げるのを嫌がってましたから。あとジャンボ尾崎(将司)も池永と同期入団でしたね。彼はすぐ野手に転向したのかな。現役当時からゴルフが大好きでした(笑)。

――その後、西鉄は低迷を続け、69年の黒い霧事件による池永、与田を含めた主力選手の永久追放が追い打ちをかけ、暗黒時代に突入します。

渡辺 黒い霧事件が発覚する前から、選手たちの様子がおかしいなとは感じていました。社会人野球出身のある選手など、最初は初々しさにあふれた好青年だったのが、あっという間にふてぶてしい態度をとるようになって、どうしたんだろうと思ったら案の定、事件に関与してました。

――野球以外のアナウンサーの仕事は。

渡辺 その頃、スポーツ中継のかたわら平日午後の帯番組「歌謡曲ヒット情報」という番組のパーソナリティを務め、天神のオープンスタジオから中継していました。結構な人気番組になり、その番組の中で「じゃあこれから平和台行ってきます」なんて叫んで野球中継に向かったりして、結構ウケてましたね。ちなみにこの番組は2010年まで40年続いたそうです。



西鉄身売り、太平洋クラブライオンズ誕生
――そして72年、西鉄が身売り。

渡辺 はい。まあ、ショックはショックでしたけど、球団が福岡からなくなるわけではないし、選手たちも気を取り直して、黒い霧事件のイメージから心機一転、新しいスポンサー、新しいユニフォームで野球に取り組んだと思います。

――73年、太平洋クラブライオンズがスタート。いきなりロッテとの遺恨試合が勃発しました。ライオンズが劣勢になるとグラウンドに一升瓶やゴルフボールが投げ込まれ、ロッテの野手がヘルメットをかぶって守備についたり、選手が球場から出られなかったり。金田(正一)監督がファンのマナーを痛烈に批判し、それにまたファンが怒る、という展開でした。

渡辺 球場は荒れましたね。カネやんはヤジに激高してグラウンドの土をファンに投げてました。ただ正直、ファンのカネやんに対するヤジが度を越してました。怒るのも無理はないと思った。まあこの時期は、相手だけでなく、不甲斐ないプレーをしたライオンズの選手にも痛烈やヤジが浴びせられたり、モノが投げられたりしてましたけど。

――74年には現役大リーガーのフランク・ハワードが鳴り物入りでやってきました。球団も宣伝に力を入れて「ホームランを何本打つでしょう」なんてクイズまで開催していましたが、結局公式戦は1試合に出ただけで2打数0安打、0本塁打の結果を残して退団しました。

渡辺 居たねえ(笑)。RKBもキャンプから徹底的に密着取材してました。ローマ字で「カヨウキョクヒットジョウホウ ハ イイバングミ ダ」と書いた紙を彼に渡して読んでもらい、その歌謡番組の冒頭で流してました。何を言ってるか聴取者は聞き取れなかったようですけど(笑)。

――75年には江藤(慎一)さんがプレイングマネージャー(選手兼任監督)に就任しました。白(仁天)、土井(正博)、国貞(泰汎)など移籍選手を大量に迎え「山賊打線」の異名を取りました。

渡辺 江藤さんはもう、見たままの、破天荒な人。ユニフォームの尻のポケットにバットを突っ込んだりして悠然と歩いてましたね。取材は非常にやりやすかったです。「そんなことまでしゃべらなくていいのに」と思うことまで話してくれました。
平和台に響く閑古鳥の鳴き声、そしてライオンズは埼玉へ
――結局江藤さんは一年限りで退団、太平洋は次第に弱くなり、平和台球場のホームゲームでも観衆数千人、閑古鳥が鳴いていました。

渡辺 ひどかった。気合いを入れて平和台球場に入っても、ガラガラ。侘しかった。ファウルボールがカランカランなんて音を立てて放送席の近くまで転がってきた。集音マイクがそれを拾って。「閑古鳥が鳴く声ですね」なんて言われて。情けなかったですね。

――当時RKBさんはライオンズのホームゲームは全試合中継されていましたが、ビジターの試合はシーズンが進むにつれて中継しなくなりました。

渡辺 当時のライオンズは毎シーズン、最初のうちはなんとか5割弱くらいの成績で上位に食らいついていっても、次第に負けが込んで優勝の目がなくなると局としてもビジターにまではスタッフを同行させられず、巨人戦を放送してましたね。出張はいろいろ楽しみだったんたけど、いつの間にか予定が飛んだりしていた(笑)。

――クラウンライター時代の二年間も成績は振るいませんでした。その中で77年秋のドラフト会議。一番くじを引いて敢然と法大の江川(卓)を指名しました。

渡辺 驚いた。福岡も盛り上がったけど、「来ないだろうな」と思ってた。結局「九州は遠すぎる」という理由で江川に断られ、入団には至りませんでしたね。東京から福岡に行った自分だからわかるんだけど、あれは正直、江川の本音だと思います。当時は東京都と福岡の距離感が今とは格段に遠かった。

――そして78年秋。福岡野球株式会社(スポンサーはクラウンライター)から西武への身売りが発表されました。

渡辺 これはもう、本当にショックだった。ただただ悔しいというか。ただ、太平洋、クラウンの頃は福岡の財界もまったくバックアップしてなかったし、福岡からプロ野球が消えたのはやむを得ない結果であったとも言えます。自分たちが支援しなくても球団がなくなることはあるまいと、財界も高をくくってましたね。


誰も想定していなかった「福岡のライオンズ」の消滅、埼玉への球団移転。渡辺氏も、人生を左右する選択を迫られることになる。

(続く)

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