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名前が生み出す自我の幻想

自分とは誰かと問われた場合、多くの人が普通最初に出す答は名前なはずです。名前は究極的には言語によるレッテル貼りにすぎないにもかかわらず、名前が自分だと、あるいは名前が自分のアイデンティティーの大切な一部だと、少なくとも無意識に思っている人は少なくないでしょう。

しかし名前が与える自分とは幻想の自分であって、これによって本当の自分が覆い隠されてしまっているということになります。別の言い方をすれば、人間の成長の過程において、まずは親から呼ばれ、それから周囲の人たちからも呼ばれるようになる名前を自分と結びつけるようになると、幻想の自分としての自我による支配が確立します。

それでは名前はどうやって自我の幻想を生み出すのでしょうか。自我というのは、自分は独立の存在だという幻想です。自分も周りの人たちもそれぞれが独自の名前を持っているのを見て、自分も周りの人たちも名前という一種の境界によって仕切られた独立の存在だという幻想を抱くようになるのです。

これが幻想にすぎないことに、頭だけでなく、直接体験として気づくことは簡単なことではありません。私自身、これに気づくことができたのは、今思い返せば、ほとんど奇跡としか思えません。この文章も一部の方々には意味不明に聞こえてしまうことでしょう。それほど名前が生み出す自我の幻想は巧妙かつ深淵なのです。

いずれにしても、この幻想から目を覚ました後の視界は以前とは全く別物になりました。目を覚ます前の視界は例えて言えば霧の状態です。それなのに現実がはっきり見えているものとばかり思い込んでいました。目を覚ました後に目に入るようになってきた現実はこれまでとは全く別物です。それでもまだどれだけ霧がかかったままになっているのかは自分では分かるすべがありません。

人間社会を営んでいくためには、魂の借り物である肉体に名前だけでなく国籍や様々な番号をつけるのは一種の必要悪でしょう。便宜上、名前を使い続けはしても、そして名前というレッテルによって自我の幻想が生み出されていること、したがって名前は本当の自分そのものではないということを忘れないようにして生きることは可能です。

まだ言語学を職業にしていた頃、その最後の数年には辞書学と並んで人名学も研究対象にしていました。イスラエルの大学で教えた数々の科目の中で、群を抜いて学生たちから好評だったのが、ユダヤ人名学でした。その後、奇跡とした思えない経験を通して自我の幻想から目が覚め、言語一般、そして特に名前が自我の幻想を生み出すのに大きな貢献をしていることにも気づくようになると、人名研究に対する興味は一気にしぼんでしまいました。

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