見出し画像

噂話の不毛さと危険性

日本に移り住んで以来突き合わせられる機会が増えた話がその場にいない第3者についての噂話です。聞かされる度に不毛さと危険性を感じてしまいます。

不毛さを感じるのは、噂話というのが基本的には他の人による自我の思考の解釈だからです。同じ理由から、例えば料理番組で芸能人たちが垂れ流す料理についてのコメントにも同じような不毛さを感じます。言ってみれば、視聴者としての私たちにとってはその場にいあわせていない料理という第3者についての一種の噂話だからです。

人を知るにしても、物を知るにしても、その王道は言語を介さないで直接知ることだという思いは強まるばかりです。この理由から、誰かに初めて会った時には、その人について本人にはあえて何も質問せずに、その人の存在、つまりその人の霊的エネルギーを感じるようにしています。ここで中途半端にその人について知ってしまうと、レッテル貼りになってしまい、直感が狂わされてしまうからです。誰かあるいは何かについて知ることと、その誰かあるいは何かを知ることの間には本質的な違いがあります。

噂話というのは、自分のよるレッテル貼りからさらに1段階隔離された別の人によるレッテル貼りということになり、その不毛さはさらに増します。

噂話は、その性質上、陰口に発展してしまう危険性も低くありません。その場にいあわせていない人の悪口を言うことは3人を(比喩的・霊的に)殺すことになるというユダヤ教の教えがあります。その3人とは、悪口を言う人、聞かされる人、そして陰で悪口を言われている人です。

悪口を言う人と聞かされる人に悪影響が及ぶことは簡単に想像がつくはずです。陰で悪口を言われている人にも悪影響が及ぶのは、言葉が持つ一種の霊的な力のせいです。悪口を言われると、その悪口の対象になったその人の欠点が増すと言われています。逆に、その場にいない誰かの良いことを言うと、その人の利点が増すと言われています。

誰かあるいは何かについて何も良いことを言うことがない場合には黙っているのがいいということをある人から教わり、それ以来、普段の生活でも実践するようにしています。ただ、これは不正に対して抗議の声を上げることは含まれないはずです。つまり直接本人にであれ、陰でであれ、悪口を言うことに対する戒めということになります。

誰かが言う陰口につき合わせられそうになったら、可能であれば、その場を去るようにしています。その陰口によって殺されることになる3人の1人にならないようにするためです。

PS: つながる

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?