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偽の謙遜と真の謙遜

19年ぶりに日本に移り住むとすぐに気づき、今でも強い違和感を持ち続けていることは、日本ではおそらく美徳とみなされているはずの日本式謙遜です。

例えば、誰かを褒めると、それが本当に心から出ている言葉であっても、多くの場合相手から最初に返ってくる言葉は「いえいえ」です。否定の言葉を2回繰り返していますが、否定の否定、つまり肯定ではなく、否定の強調です。

でも本当に否定しているのでしょうか。相手が自分を否定したのを受けて、褒めた方がその否定を肯定したとしましょう。そうすると、その相手はむっとするはずです。「いえいえ」という否定の強調を否定してほしいという思いが心の奥に強くあるはずです。

こう考えると、こうした日本式謙遜というのはかなり不健全で倒錯した偽の謙遜であると言えないこともありません。謙遜の反対に当たる傲慢が美徳ではないことは誰にでもすぐに分かるはずですが、本来は美徳であるはずの謙遜が偽りの衣をまとっていた場合、それでも美徳と呼べるのかとなると、大きな疑問です。

それでは真の謙遜とは何なのでしょうか。このヒントになるのが、ユダヤ史上最も謙虚な人物とされているモーセです。聖書の出エジプト記に描かれている彼の言動から浮かび上がる謙遜は日本式謙遜とは全く異なるものです。

それは、もし同じことを他の人たちにやらせたら、自分よりもはるかにうまくやれるはずだということを肝に銘じながらも、自らを否定することなく行動を起こすということです。

それでは、誰かから心から褒められた場合、「いえいえ」という偽の謙遜の反応の代わりにどう反応するのが真の謙遜を反映することになるのでしょうか。一番簡単なのは、「どうもありがとう」と言うことだと思って、モーセを思い出しながら、自分でもそう言うように心がけています。

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