いつもの後悔

いつものように後悔をする。
失敗から学ばない。
自分のことを守ろうとするあまり人を蔑ろにする。
自分が疲れたら突き放す、怖いなと思ったら遠ざける。
その人が遠ざけられたことによってどんな気持ちになるのかも考えないまま。
いや、ほんとは想像がつく。
だけど自分の感情を優先してしまうんだ。
このままだと多分自分がどっかにいっちゃうなって時に私は自分の感情を優先してしまうんだなと思う。
それまでは自分の感情はどうでも良くて二の次三の次にしているんだと思う、だから自分の感情を表に出すまでに時間がかかるしなるべくネガティブな感情に関しては出したくないとすら思っている。
自分に価値はそんなにないと思っている。
だから私はやることをやるべきだし、私がやりたいことというのも人が望むものや欲しがるものでなければ行動に移す原動力にはならない。
私の存在自体に価値はない。
だから私は必死でこの世に生きていい意味を探している。
色んなことを吸収したい学びたい、それで人のために生きる、それで初めて自分が生きることを許されている気分になる。
人のために行動することが美しいと思うのも、人のために行動する自分なら好きでいられるのも、多分根本に自分というものの価値はないと思っているからなんだと思う。
私は自分がからっぽな人間だとは思わない。
自分の知識や経験が人より著しく劣っているかと言われればそうでもないと思う。
だけど、私が生きているだけで私の存在を肯定してくれる人はどこにもいないと思っている。
だから頑張る、頑張らなきゃいけない。
強迫観念に近いものなのかもしれない。

小さい時から何をしても母はもっともっとと高みを目指させた。
頑張っても頑張っても「すごいね」の一言は貰えなかった。
宿題をやらなかったら叱られた、友人と遊びに行くのもやめろと言われた、ピアノの発表会はノーミスで弾きあげることが当たり前だった、父と母はいつも喧嘩していた、父はいつも機嫌が悪そうだった、私が座っている場所から父は私をよく移動させた、母は私をだらしないと言った。
だからきっとこの世界に生きるのが辛かったんだと思う、だから夢見がちになって、想像の世界で生きるようになった。妹と一緒に。
それで妹とよく想像の話をした。
妹との会話は楽しかった。

それでも私たちは母親の愛情を欲しがった。
母を喜ばせるために2人で色んなことを考えて母を喜ばせようとした。
母は、そんな私たちをどう見てたんだろうか。

夢見がちな性格は大人になっても変わらなかった。
いつの間にか大人になって、だけどこれまでの人生で辛いことや悲しいことがあると想像の世界に逃げていた。
哀しいかな、想像の世界で私は父と母を何度も殺した。
家族みんなで死ぬ光景を何度想像したんだろう。
自分が自殺したら母はどんな反応をするかなって、少しは自分のことを責めるかなって、私がいなくなったことを寂しいと思ってくれるのかなと、何度自分のお葬式をあげただろう。
その度に泣いてくれる母親を想像して自殺は踏みとどまった。
私は小さい頃から想像の世界によく遊びにいっていたんだな、と思う。
そして想像の世界で生かしてもらっていたんだなと思う。

自分の感情を整理することでどうにかなることではない悲しみがずっと心の中にあると、人はそれから目をそらすようになるんだと思う。
人は悲しみに耐え続けるということが出来ないと思うから、悲しみに暮れても誰も助けてくれないとき、人は新しい世界を自分で作り出すのだと思う。

そうやって生きてきたから、自分の感情から目をそらすのがとても上手になった。
それで外部になにかやりがいを見つけることによって自分の存在意義を見つけることができるようになった。
そう私は思う。

でも今回の経験はすごく勉強になった。
あぁ、私はまだ自分の感情と向き合えないんだ。
向き合っているようで心の奥底には悲しみしかなくて、そこに自分が誰なのかという感覚は欠如しているんだと、そう思った。

多分同じようなことを妹も感じていると思う。
だから今妹にすごく会いたくなった。
妹は元気にしているかな、最近めっきり笑うことが少なくなった妹は、前より笑わせるのが難しくなった。
私たちの世界をまた作りたい、無理に現実に、自分と一緒に生きなくてもいいんだよ、そんな言葉をかけなくても私たちは心で繋がっている気がする。

だから今すごく、妹に会いたいんだ。

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