【緊急】川崎通り魔事件に感じた恐怖と違和感

 今朝早く、私のスマホのバイブレーションは枕元でひっきりなしに鼓動していました。何かと思えば、母からの着信。メッセージも飛んできていて、「登戸の事件に関わってないかい?」とあるのですが、寝起きの私にはなんのことだかよく分かりません。とりあえずテレビのニュース番組を見てみると、何でも川崎市の公園近くで児童らを含む十数名が刺された、ということでした。

川崎通り魔殺傷事件の概要

 事件が起こったのは今朝のこと。私の自宅から小田急線を利用して20分少々で辿り着いてしまえるほど、実に身近な場所でこの惨劇は起きてしまいました。

 28日午前7時45分ごろ、川崎市多摩区登戸(のぼりと)新町の路上でスクールバスを待っていた小学生らに男が近づき、刃物で次々と刺した。小学生16人と近くにいた成人2人の計18人が襲われ、小学6年生の女児と別の小学生の保護者とみられる30代男性の計2人が死亡。40代女性1人、小学生女児2人の計3人が重傷を負った。110番で駆けつけた神奈川県警の警察官が、刺したとみられる男を確保。男は自分の首を刺しており、搬送先の病院で死亡が確認された。現場の状況から通り魔事件の可能性があり、県警は殺人の疑いで捜査している。(毎日新聞web版 2019年5月28日 08時16分(最終更新 5月28日 14時40分))​

 現場となったバス停は、小田急小田原線・登戸駅から歩いて5分少々という立地から、周囲には大手コンビニ店やドラックストアなどの建物もあり、決して人目につきにくい場所ではありません。つまり、治安の面で不安視されるような場所ではなかったのです。だからこそ、この場所は近くの小学校のスクールバスの待合所として指定されていたものと思われます。もし私が子どもを学校に通わせる親の立場なら、このバス停が集合場所として指定されているのは非常に安心です。これだけ人目につきやすい、助けも呼びやすい場所であれば、たいていの親御さんが不安視されるであろう性犯罪や声かけ事案などが発生する危険性は極めて低いように思われます。

 しかしながら、今回の事件は発生してしまいました。犯人死亡のため、その動機や、そもそも麻生区在住の男がなぜ犯行現場まで移動する必要があったのかなど、明らかになっていないことばかりではありますが、少なくとも今回は、残念ながら普段の治安の良さがかえって仇となってしまった形のようです。つまり、犯人の男はこそこそと人目につかないように犯罪に手を染めたいというタイプではなく、むしろ人気の多いところ(もっと言えば、制圧しやすい子どもたち)に突撃し無差別に殺傷するという明確な意志を持っていたがために、このバス停が標的とされてしまった可能性があります。男は包丁を何本も用意の上で現場に向かっていったようですから、この場所が普段から治安が良く、つまり警戒・警備されていない場所だということは重々折り込み済みだったはずです。治安の良さこそが、今回、男をこのバス停での犯行に駆り立てた一つの要因だと言えるのではないでしょうか。

「川崎市」だから今回の事件は起きたのか?

 今朝からニュース番組にせよワイドショーにせよ、テレビではひっきりなしにこの事件について取り扱っています。おそらく令和はじまって最初の殺傷事件となってしまった今回の一件は、テレビの他にも様々なメディアで大々的に報じられており、新聞やラジオはもちろん、ネットニュースでも新情報が次々とアップデートされています。今回の事件を受けてコメントするSNSユーザーも非常に多く見受けられました。その多くが今回の事件のショッキングな様相について言及しており、破滅欲求を満たすかのような実に独りよがりな犯行に対しては、やり場のない憤りを露わにするユーザーも少なくありません。

 一方で私の目を引いたのは「都会怖い」といったコメントや「川崎だからしょうがない」というコメントです。かく言う私も地元にいたころは、都市部で凶悪犯罪が報じられるたびに「東京はおっかない」などと家族と言っていましたが、今回は地方に住むSNSユーザーから、いま私が住んでいる川崎市を目がけて「川崎は怖い街だからなぁ」というコメントが次々に挙がっている訳です。私はこの現象を非常に興味深く感じました。誤解の無いように言っておきますが、私は川崎市民だというだけで川崎市をこよなく愛している訳ではありません。したがって、「川崎市を悪く言わないでくれ!」などと抗議したい訳ではないのです。しかしながら一方で、重大な誤解を解きたいという気持ちがあるのも確かです。つまり、私が8年生活した経験上、《川崎=怖い》という認識は正しくない、ということです。

 川崎という街に《怖い》イメージがついて回るにはどうやら二つの理由があるようです。一つは、単純に「都会だから」。都会での事件・犯罪は地方よりも発生件数が多くなるため、その分、報道頻度も高まり、あたかも地方都市より治安が悪いような印象が生じます。実のところ、例えば千葉と東京、埼玉と横浜など、地図上では何十キロも離れた土地と土地とが「都会」「首都圏内」という曖昧なカテゴリーで一括りにされてしまいがちです。今回もその流れから、川崎に根源的な恐怖があるという訳ではなく、「都会」という曖昧なものへの恐怖を川崎に投影しているSNSユーザーは少なくないのではないでしょうか。

 もう一つは「在日外国人の居住者数が多そうだから」という理由です。在日外国人に対して《怖い》という印象のあるSNSユーザーにとっては、どうやら川崎は在日外国人の居住者数が多い印象を持たれているらしく、それが原因で治安もあまりよくないのではないか、と思われているようです。実際に在日外国人が日本人より怖い存在なのか、そして川崎市の在日外国人の居住者数は実際のところどうなのか、など細かく検証するつもりはありませんが、確実なのは、川崎の治安が良くない印象のあるSNSユーザーのなかには、日本人ではない別の属性の人たちにその要因を見出したい人もいる、ということです。彼らには、日本人=安全、日本人以外=危険という印象がある訳です。

 以上、二つの理由から川崎は《怖い》と思われているのではないか、と私は推測します。と同時にここで伝えたいのは、実際に住んでみると上記のいずれにも該当しないということです。いえ、もっと正確に言えば、実際に川崎に住んでみても、感覚的には地方に住んでいるときとあまり変わり映えしませんよ、ということなのです。

 確かに、私も地元にいたころは「都会」に対して怖いイメージは少なからずありました。しかしながら住んでしまえばどうでしょうか。この土地について少しずつ分かっていくにつれ、治安の良さに安心感が高まっていくのが分かりました。なぜなら、地元にいたころにニュースになっていた「都会」の事件や犯罪が身近なところ――川崎市北部で滅多に発生しないからです。「都会」は怖い、と首都圏すべてを十把一絡げにしていたものが、実際に住んでみて、そうではないと気づかされたのです。

 同時に本当に治安のよくない街というのがどんな感じかも分かってきます。あえて街の実名を挙げるならば、渋谷駅周辺、新宿は歌舞伎町、東京都足立区、川崎市は麻生区の隣町で町田駅の周辺、神奈川県大和市の駅周辺、この辺りはなかなか危険な感じがピリピリと漂うデンジャラスゾーンだと、実際に足を運んでその土地の空気を吸ってそのように結論づけました。一方、川崎市北部などはどうでしょうか。たとえば新百合ヶ丘は小田急線の快速急行停車駅であるにもかかわらず深夜帯の店などほとんどなく、非常にキレイな街として設計されており、お隣の町田駅とは天地の差なので初めて見比べたときは愕然としました。そしてそんな雰囲気がそのまま小田急線で東方向に、百合ヶ丘→よみうりランド前→生田→向ヶ丘遊園→今回事件の起きた登戸、さらにはそのずっと先の世田谷代田あたりまで続くのです(下北沢でいきなり雰囲気が変わるのもそれで興味深くはありますが)。

 更に私は以前、蒲田のあたりでとある契約獲得をするという仕事に勤めていた頃もありましたが、たしかに川崎市でも海に近いところになってくると在日外国人が多いという印象はありました(そもそも蒲田は厳密には東京都大田区ですが)。しかしながら、治安が良くないという印象は前述の街ほどはなかったです。もちろん、様々な条件面での事情から当時の私の仕事である契約獲得に至らないケースこそ頻発しましたが、それは日本国籍の人も同様でした。あまり書きすぎると悪口になりかねないのでこれくらいにしておきますが、私はこの職務期間中、在日外国人自体は怖い人たちではないということと、百歩譲って彼らが怖い人たちであったとしても、私の住んでいる川崎市北部とは十分に住み分けが出来ているという実感を持つに至りました。

 以上のことから、ネットでまことしやかに囁かれているほど、現場となった登戸駅近辺も、犯人が住む川崎市麻生区も、そんなに治安の悪い地域ではないのです。いえ、むしろ治安はかなりいい部類なのではないでしょうか。だからこそ多くの学校が校舎を設置し、子育て世代の多くが移り住んでくるのです。今回の事件の本当に恐ろしいのはここからで、令和最初の殺傷事件が、渋谷でも歌舞伎町でもなく、町田でもなく(町田では先日、未成年グループによるオヤジ狩り暴行事件がありましたが)、なんと首都圏でも指折り治安の良い地域で発生してしまったということなのです。

 翻って、私が提起したいのは、今回のような無差別殺傷事件は首都圏に限らず、別にどこでだって起こりうるということです。「都会」は怖いと、川崎だからしょうがないと、そうコメントしているSNSユーザーの地方でだって、今回のような事件が起こらないという確証は実はどこにもありません。にもかかわらず、自身の住んでいる土地の治安と、今回事件のあった川崎市多摩区の治安とを切り離して考えられるのはなぜでしょうか。これは、私が地元にいたころの肌感覚でもありますが、おそらく、今住んでいる場所の方が都会よりも「安全」だという実感が、当時の私たち家族に何らかの安心感をもたらしていたようにも思うのです。そしてまた、このような実感は昨日まで、川崎市北部に住む私自身にも、いえ、私以外の多くの住民にも少なからずあったはずです。たとえば渋谷駅や歌舞伎町、町田駅などの「大都会」ならではの事件は、私たちの周辺、川崎市北部などでは起こりっこないというある種の驕りが間違いなくあったはずなのです。今回の事件発生から、SNSでの一連の流れを見るに私が最も《怖い》と感じた点はここなのです。治安の良さや平和に安住しきっていた私たちを見てもなお、「都会」は怖い、川崎は怖いとコメントしているユーザーが出てくるたびに、「自分たちはまず安全だろう」という根拠の無い安心感が折り重ねられていくこと、そうしてこの大事件もまた一歩一歩風化していくのであろうこと、この風景をこそ恐怖と言って差し支えないのではないでしょうか。

​「無敵の人」の正体は何か?

 SNS上では、今回の事件を受けて、やり切れない感情を吐露するユーザーも少なくありません。今回、この事件の犯人である男は、リュックサックに予備の包丁をいくつも仕込んで、最期は自害しました。実行犯が死んでしまった以上、彼の意図がどこにあったのか極めて不透明な状態になってしまいましたが、状況の流れを客観的に見るに、やはり彼には何らかの破滅願望があったように感じて取れます。だからこそ、多くのSNSユーザーは「なぜ関係のない子どもたちを巻き添えにしなくてはならなかったのか」と憤りを増幅させるに至っています。一方で、SNSユーザーの中にはこの事件の犯人のような人物像を「無敵の人」と分類し、解釈を試みようとしている人もいます。

 「無敵の人」とはある種のネットスラングであり、家族や社会的信用など失って困るものが何も無い人のことを指すのだそうです。犯罪に手を染めれば、職を失い、家族さえも離れていくかもしれません。そうしたことに思いを馳せればこそ、人はたとえ一瞬魔がさしてもそこで思いとどまることができるものでしょう。しかし、そもそも「職」だとか「家族」だとかそうした大切だと言われているものと無縁の生活を送っている人は、そこで思いとどまる必要がありません。このような失うものが何も無く、心置きなく犯罪に手を染められる状態のことを「無敵」と揶揄するのだそうです。

 今回の事件の犯人は50歳代の男だったということから、いわゆる「無敵の人」が自暴自棄になって破滅欲求を満たしたのではないか、という解釈に至るSNSユーザーは少なくありません。現に「無敵の人」についてツイッターのまとめが作成されるほどです。

 このまとめの中でも示唆されていますが、まだ警察から発表があった訳でもない犯人像について、特定の性質や人格を与えようとするのは非常に危険です。仮に今回の犯人が「無敵の人」であったとしても、「職」と「家族」の無い人びとをすべて犯罪者予備軍であるかのように連想させるのは誤りです。日本ではつい最近、「オタク」を犯罪者予備軍として辱めたばかりで、メディアによるそうした報道姿勢、シナリオづくりは今なお根強く続いています。「無敵の人」というある属性を作り上げ、それを対象に当てはめ、蔑むというのは、この事件の不可解さや やり場のない憤りこそ解決できたような気はするでしょうが、誰にも迷惑をかけずに「職」と「家族」を持たない人生選択をしている多くの人たちを生きづらくし、あるいは、熟年円満離婚や仕事の早期リタイアという決断から人びとを遠ざける一因になるでしょう。

 ではなぜ、そもそも「無敵の人」の犯行ではないか、と囁かれるようになったのでしょうか。一つにはここまで述べてきたように、不可解で腹立たしい事件に対する、手がかりを得たいという欲求があると思われます。しかしながら、それだけではないように思うのです。おそらくですが、多くの人びとが、今回の無差別殺傷犯と自分自身のアイデンティティを、どうにかして隔離したいという欲求に駆られてはいないでしょうか

 たとえば前項では、「都会」の怖さと地方に住む自分の身とを立て分けることで、恐怖から逃れ、安心感を得ようとする人々を観察しましたが、ここでも起こっていることは根本的に同じです。月並みな言い方をすれば、多くの人は「私と同じ人間の犯行」などとは思いたくないはずです。それを認めてしまえば、自分自身にも無差別殺傷の素養があると認めることになりかねません。したがって人びとはどうにかして、今ある自分の姿からなるべく遠ざけたキャラクターを犯人に当てはめることで、殺人犯を自分とを異化しようとします。こうすることで、「職」も「家族」も持ち合わせている人びとは、たったそれだけのことでさも自分が「清い」存在であるかのように錯覚することができるのです。さらに言えば、そうした言わば「無敵の人」を表立って、ないし心の中で蔑むことで、自分の心の平静と幸福感の維持を実現し「犯罪とは無縁の立場」を貫きつづける事ができるのではないでしょうか。

 しかしながら、少し立ち止まって考えればすぐに分かることなのですが、ここ数年の無差別殺傷事件の犯人像はどれも一言では表せない、様々な人格や動機のあった人物像だったかと思われます。ある特定の人格や属性の人物だけが犯罪に手を染める社会なのであれば、もうすでに対策が行き届いた平和な社会になっているはずです。もちろん現実はそうではありません。しかしながら人びとは、犯罪者像を画一化することによって、そうして画一化された犯罪者像に対して合理的対策を打ち出し、平和な世の中を演出せずにはいられないのではないでしょうか。これもまた月並みな言葉になりますが、事件後の人びとの関心はすでに、いかに「安全」な状態にできるかではなく、いかに「安心」な心持ちを回復できるかに向かっているように思われます。今回のような悲惨な事件が起こった原因を、すべて犯人の特殊な属性によるものだとしてしまえば、犯人を取り除いてしまえばすぐに平和な生活が取り戻せてしまうことでしょう。逆に言えば、犯人の男を「無敵の人」ではない、ごくありふれた普通のサラリーマンとして仮定すると、安心・安全だったはずの街なのに またすぐにでもそうした犯罪が起こりかねない危険さが途端に立ち込めてしまい、たいへん不都合なのです。だとすれば「無敵の人」の正体は、建設的な「安全」対策よりも手っ取り早く「安心」感が得られるのであれば、自分からはかけ離れた人物像を蔑むという悪魔の手段さえも厭わないという、人びとのエゴイズムなのではないでしょうか

終わりに

 今回のような大事件、理解しがたい不可解な事件が起こるたびに私たちは、決して他人ごとではないのだという覚悟を求められてるように思います。ショッキングな事件であり、目を背けたくなるのは誰しも同じことでしょう。しかしながら、生活地域やアイデンティティなどで今回の犯罪現象と自分とを隔離してしまうのはどうでしょうか。
 明日も報道があるでしょう。明後日も報道はあるでしょう。しかし、1週間後はどうでしょうか。1か月後はもうほとんど報道されていないでしょう。その頃にはとっくに人びとの安心感は回復しきっているからです。そしてこれこそがまさしく事件の風化です。そうして忘れかけたころ、「都会」でしかありえないと思っていた大事件が、すぐ近所で、自分によく似た人間によって引き起こされ、また一過性の憤りと安心感の確保を繰り返していくのでしょう。

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